カテゴリ:作り話( 65 )

かなかな(立秋)その2

 むき出しの脛に、朝露に濡れた草が触れる。
 早起きは苦手だが、草むしりは朝のうちにやってしまう方が楽だ。
 がっしりと根を張った草を力任せに引き抜くと、カエルや小さな虫たちがワラワラと逃げ出す。
「…うわっ!」
 丸々と太ったミミズまで出てきた。クネクネとのたうち回る姿に、思わず声が漏れる。
 後ろで、くつくつ笑う声がした。
「あらあら、ミミズ?」
 妙子さんだ。
「…久しぶりに見たからびっくりして…」
「青くんは、昔からミミズが苦手だったもんね」
 確かにそうなのだ。
 昔、やんちゃな村の子供にミミズを投げつけられたのがトラウマになっている。
 照れ隠しに、わざとゆっくりと立ち上がり、軍手についた土を払い落とす。
「あの、昨日は差し入れありがとうございました。
 美味しかったです」
 妙子さんはパッと笑う。
 今日は向日葵が描かれたスカートを履いている。
「お勝手に、茹でたトウモロコシ置いてあるから、良かったら朝ご飯の足しにしてね」
 スカートをひらりと翻して、妙子さんは帰って行った。
 外の水道で手を洗って家に入ると、味噌汁の匂いがした。
 鍋を覗くと、茄子とインゲンが浮いている。
 ぴかぴかの黄色いトウモロコシには、薄く塩をまぶしてあった。
 腹の虫がぐうっと鳴る。
 朝からご飯を二膳、平らげた。

 やっぱり妙子さんは、親戚の誰かなのだろう。
 子供の頃に一緒に遊んだのかも知れない。
 静かになった家に度々やってきて、祖父母を気遣ってくれたのかも知れない。
 夜にでも、父に電話して確かめてみようと思っていると、その日一番の見学者がやってきた。
 やはり初老のご夫婦だ。
 旦那さんは少し気が弱そうで、奥さんが張り切っている。
 奥さんは頻りに、「素敵!素敵!」と歓声を上げていた。
 和風モダンな設えにしたいのだと言う。
「それにこのお庭!ガーデニングが存分に楽しめるわね。
 ねぇ、あなた、こちらに決めましょうよ」
 すぐにでも買う勢いだ。
「村にコンビニはありません。最寄りのスーパーまで車で二十五分。
 もちろん、病院も遠いです。
 夜は真っ暗だし、虫も蛇も出るし、庭で作ったトマトは猿が根こそぎもっていきます。
 そうそう、冬は雪が腰ぐらいまで積もります」
 明るい声で説明したのは、いつの間にか僕の後ろに来ていた妙子さんだった。
 見る間に奥さんの腰が退けた。
 旦那さんは「うんうん」と頷いて、
「…とりあえず、一度ゆっくり考えてみます」
 と、奥さんを促して帰った。
「妙子さん、困ります。あんなこと言ったら、みんなびびって買ってくれなくなっちゃうじゃないですか」
「でも、本当のことよ。
 田舎に慣れてないお年寄りがいきなり来ても、苦労するだけだもの」
 でも、腰まで雪が積もるってのは言い過ぎたわね、とコロコロと笑っている。
 僕は縁側にへたり込み、水色の夏の空を見上げた。

 午後には初めて、若い二人がやって来た。
 家の隅々を丁寧に見て回る。特に水回りを確認し、色々な場所のサイズを計っている。
 妙子さんは、興味津々といった様子で、僕の後ろをついてくる。
 磨り減って光る階段の手すりを、奥さんが嬉しそうに撫でた。
 旦那さんは、天井を渡る太い梁を見上げて目を細めた。
 何も言わなくても、二人がこの家を気に入ったことが分かった。
「あの、でも、村にはコンビニもなくてですね…」
 やっぱりネガティブな情報を伝えなければ、フェアじゃない。
「ええ、知ってます。調べました。
 便利な場所ではないですよね」
 奥さんはニコニコと言った。
「僕たち、カフェを開きたいんです」
 旦那さんは、少し照れながら話した。
「こんな場所で?」
 僕は素っ頓狂な声を上げてしまった。
 こんな田舎でカフェをやっても、わざわざ来てくれる人なんてどれだけ居るだろう。
「そうですよね、無謀ですよね。
 でも、そのために、僕たち何年も準備してきたんです」
「村の人たちも来てくれるような、近所のお茶飲み所みたいなお店にしたいんです」
 妙子さんは静かに、二人の話を聞いていた。

 熱心な若い二人が帰った頃には、日はだいぶ西に傾いていた。
 山間は早く暮れる。
「青くん、カフェーってなぁに?」
 妙子さんの思いがけない質問に驚く。
 今時、カフェを知らない女子なんて。
 それに「カフェー」と伸ばすなんて。
「えと、喫茶店?が、おしゃれになった、感じ、かな?」
「そうなのね。
 あの二人は、この家でカフェーをやりたいって言ってるのね」
 ふんふんと、頻りに頷いている。
「いいわね、楽しそうね。あの人たちならいいわね」
「確かに感じが良い人たちだったけど、買ってくれるかどうかは別です」
「カフェーになれば、色々な人が来て賑やかでいいじゃない」
 僕はあらためて、妙子さんを見つめた。
 丸っこい顔に大きな目。
 …あれ?
「どこかのお年寄り夫婦が住んでるだけじゃ、寂しいもの。
 それに、カフェーなら、あなたたちだって来てくれるでしょ?」
 思い出した。
 名前、妙子、って…。
「………おばあちゃん?」
 我ながら、バカみたいなことを言っていると思うけれど。
 でも、妙子さんはにっこり笑って答えた。
「あら、ばれちゃった。
 青くんが来てるから、嬉しくてついつい、ね」
 それにしたって、若返り過ぎじゃない?
「せっかくなら、しわくちゃのおばあちゃんより、きれいな姿で会いたいじゃない?」
 向日葵のスカートを、ふわっと広げて見せる。
「これね、おじいさんと初めてデートした日に着たの。
 おじいさん、帰り際にちょこっとだけ褒めてくれたのよ」
 ふくふくと笑う顔は、本当に楽しそうだ。
 蜩(ひぐらし)の鳴き声が、高く低く波のように、僕らを包み込む。
 降りそこなって崩れ始めた入道雲の縁が、金色に染まる。
「おばあちゃん…」
 妙子さんは、僕の手を取った。
「青くんは、ばあちゃんの自慢」
 またね、という声と、手のひらの温もりを残して、妙子さんは行ってしまった。


 祖父母の家は、若い二人に売ることが決まった。
 妙子さんはきっと、喜んでいると思う。
 でも、若い人たちに高く売るわけにはいかないから、僕の小遣いは大して増えなかった。
 カフェが完成したら、従兄弟たちを誘って行こうと思う。


  また蜩のなく頃となつた
  かな かな
  かな かな
  どこかに
  いい国があるんだ
          山村暮鳥



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あまりの酷暑にうんざりして、少しでも涼しげな場所に脳内トリップしたくて書きました。
最近のトウモロコシは、とてもとても甘いかわりに白っぽくなりましたね。
子供の頃に食べていたトウモロコシは、張り切ってパツパツに実って、ピカピカの黄金色をしてたなぁ、と懐かしく思い出しました。
お盆は、亡くなった懐かしい人たちが近くに来てくれる季節ですね。

台風が近づいています。
大きな被害が出ませんように。
そして、少しでも涼しくなりますように。


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いつかの緑陰。
涼しい風が吹くと、天からの気まぐれな贈り物のような気持ちになります。







 
 
 
 
 
 

 
 

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by bowww | 2018-08-08 13:01 | 作り話 | Comments(0)

かなかな(立秋)その1

 祖父母が住んでいた田舎の家を、売りに出すことが決まった。
 住む人がいなくなって三年、僕の両親を始め、親戚たちが代わる代わる訪れて片付けをしていたおかげで、築九十年を超える古い家は、そこそこ小ぎれいさを保っていた。
 山間の集落にある祖父母の家は、昔話に出てくるように古めかしい。
 僕が子供の頃、夏になると親戚が大集合して、それは賑やかだった。従兄弟やら、はとこやら、その友達やら、とにかく大勢の子供たちがわちゃわちゃと居て、遊んだり喧嘩したりしてひと夏を過ごした。
 大学の夏休み、僕はその家の留守番を任された。
 田舎の古民家を探している人は多い。最近まで住人がいて手入れされていた古民家は貴重な物件なのだと、不動産屋の反応も良かったという。
 実際に家を見てみたいという申し出も、既にいくつか入っているらしい。
 僕は、見学に来た人を案内するガイド役を仰せつかったというわけだ。
「家が高く売れるも売れないも、お前の案内次第だな。高く売れたら、小遣いも倍増だ」
 夏休み明けのゼミ発表と卒論の準備に追われて、今年の夏はアルバイトを諦めた。
 父や親戚からの小遣いは、貴重な収入になる。
 電話の向こうで上機嫌に話す父は、最後にぽつんと、
「いい人に買ってもらいたいからな。頼んだぞ」と呟いた。
 田舎の家で過ごす最後の夏だ。 

 広くてひんやりした土間、急な階段、てかてかに黒光りする廊下、幾つもの座敷。
 家に入ると微かに、味噌や糠床のような匂いがする。
 ばあちゃんの漬物や味噌汁、うまかったんだよな。
 中学生になる頃には、祖父母の家に行くよりも友達と遊ぶ方が楽しくなっていた。
 訪れる回数は徐々に減って、それはほかの孫たちも同じことで、きっと二人に寂しい思いをさせてしまったと思う。
 祖父が亡くなって、祖母も入退院を繰り返すようになった頃、僕は大学に合格したことを報告しに行った。
「青(せい)くんは、賢いで。ばあちゃん、自慢だわ」
 良かったよかったと、くしゃくしゃの笑顔で繰り返した。
 もっと度々、会いに来ようと思ったのに、僕は新生活の忙しさにかまけてしまった。
 次にこの家を訪れたのは、祖母の葬式だった。
 ごめんな、ばあちゃん。
 雨戸を端から開け放つ。
 夏の光と風、蝉時雨がどっと流れ込んで、家が呼吸を始めた。

 不動産屋が言った通り、この家はなかなかの人気者だった。
 週末ともなると、一日に三、四組の見学希望者がやってきた。
 やはり、第二の人生を考えているらしい初老の夫婦が多い。
「老後はのんびりと田舎で、というのが夢だったんです」。
 穏やかな笑みを浮かべる、品の良い老夫婦に、
「村にコンビニはありません。最寄りのスーパーまで車で二十五分。
 もちろん、病院も遠いです。
 夜は真っ暗だし、虫も蛇も出るし、庭で作ったトマトは猿が根こそぎ持っていきます」
 なんていう情報を、伝えていいものかどうか迷ってしまう。
 田舎では、のんびりしている暇なんてない。
 僕自身も、卒論の準備にとたくさん資料を持ち込んだのに、草取りや掃除、家のあちこちの小さな修繕、食事の用意(買い物に時間がかかる)などに忙殺されて、ほとんど手つかずのままだ。
 携帯電話は通じるものの、ネット環境は整っていないから、情報源はほぼラジオのみという状態になっている。
 やれやれ、割に合わなかったかな、と座敷に寝転がる。
 煤けた欄間を見上げ、そういえば、あの模様が人の顔に見えるとか見えないとか、年上の従兄弟に脅かされたっけ…などと思い出しながらウトウトする。

 いつの間にか蝉時雨は止んで、風が涼しさを増していた。
 蜩(ひぐらし)が、一声だけ鳴いて黙った。
 目を開けると、縁側に誰か座っている。
 僕は、バスタオルをはねのけて飛び起きた。
「ごめんね、よぉく寝てたから」
 くつくつと笑う。若い女の人だ。
 家の見学に来た人だろうか。
 慌てふためく僕を見て、明るい笑い声を上げた。
「青くん、久しぶりね」
「…はい、ご無沙汰してまして…」
 反射的に返してしまったけれど、誰だろう?
 何処かで会った気もする。
 遠い親戚の誰か、かも知れない。
「妙子です、覚えてない?」
 覚えていない。
 僕と同じぐらいの年齢だろう。丸っこい顔に、大きな目がくりくりと動く。
 紺地に白い桔梗が散っているワンピースが、クラシカルだけれどよく似合っている。
「まぁ、仕方がないわよね。
 一人だと大変かと思って差し入れに来たの」
 竹籠の弁当箱を渡される。
「また来ます」
 妙子さんはひらひらと手を振って、庭を出て行った。
 蓋を開けると、三角形のごま塩むすびが三つ入っていた。
 添えられた茄子の味噌漬けは、キュッとしょっぱかった。



【…続きます】
 
 
長くなりそうなので、一旦ひと休み。
エキサイトブログ、私のパソコンでは画像がまったく表示されなくなってしまいました。。
ブラウザのバージョンも古くはないし、「何やらを削除せよ」という指示にも従ってみたのですが、どうにもこうにも。。
パソコン関係、とても苦手なので、早くも心折れそうです。。

 
 
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by bowww | 2018-08-07 22:15 | 作り話 | Comments(0)

箸づかひ(大暑)

 店先の、打ち水の跡と盛り塩の白が清々しい。
 相手の背中を見ながら、晒された藍の暖簾をくぐった。
 小上がりの席に、半月形の塗り盆が二つ、用意されていた。

 会うのは今日で三回目だ。
 同僚から紹介された男性は、物腰が柔らかで話が面白い。
 お酒が好きだと言うと、「じゃあ、ぜひ」とこの店に案内された。
 ぎっしりと氷が詰められた小鉢に、くるんと丸まった白い身。最後にさっと炙ったのだろう、細かく入った包丁の跡が、ちりりと焦げている。
 スダチを搾って口に運ぶ。
 むっちりと張った身を噛みしめ、じわりと滲む甘みを楽しみながらも、舌は意地悪く骨の名残を探してみたりする。
「この季節は、やっぱり鱧がいいですね。
 そうそう、この前、出張で京都に行ったときにね…」
 どこそこの有名店に行ったら、バカ高いだけで美味しくなかった云々…という話を、面白おかしく語る。
 少し口調がくだけてきたなと思う。
 話しながら、私の猪口が空なのを見逃さない。片口を持ち上げて、「さ、どうぞ」と注いでくれる。
 一口含み、「では」と今度は私が注ぐ。
 備前焼の片口は、持つとしっとりひんやりと重い。
「お酒は何が一番お好きなんですか?」
 なんでも好きなんですと答えれば、「頼もしい」と笑う。
 椀物が運ばれてきた。
 お椀の縁を軽く押さえて蓋を開けると、ふわりと出汁の香りが立つ。
 白い身が沈んでいる。
「松茸です。香りはまだまだですが、初物ですので…」と店主が言葉を添える。
「サマツだね、これは貴重だ」
 噛めば頑丈な繊維質がキシキシと歯に当たり、微かに香りが鼻に抜ける。出汁を含むと、つるりと小さな何かが舌に触れた。
「…あ、」
「蓴菜、かな?」
 顔を見合わせて、答え合わせをする。

「手でどうぞ、そのまま」と出された自家製カラスミは、薄く切った大根に挟んで食べる。
 濃厚な旨味が残る口中に、少しぬるんだお酒を含む。
 二つ目の片口が来た。
 もう少しどうかと勧められたが、「お料理をちゃんと味わいたいから」と制して、私が主に注ぐ係になる。
 相手はよく喋り、よく食べる。
 つまらない自慢話も愚痴も、今のところはこぼれてこない。
 シャツの襟や袖口が小ざっぱりしている。
 爪が手入れされている。
 食べ方がきれい。
 好もしい点を並べてみる。
 土鍋で炊いたトウモロコシご飯に、「お焦げがある」と喜んでいるのもいい。
「また美味しいものを食べに行きましょう」と約束し、送っていくという申し出を、「電車の時間まで、少しこちらで待たせてもらうから」と丁寧に断る。
 帰る相手を見送ってから、カウンターに座った。
 店主が冷えた錫のコップを置き、「山形から来た酒」と一升瓶を掲げて見せた。
「いい感じだったんじゃん?」
 水回りを拭き清めながら言う。
 コップの冷たさと重さを楽しみながら、「ね」と短く答える。
 店主は片付けを終え、自分のコップにも同じお酒を注いだ。
 立ったまま、一口飲んで呟く。
「…ただ、なぁ…」
「ん?」
「箸をきれいに使える男って、ちょっと気をつけた方がいいかもな」
 なるほど。
「もしかして、今の人は常連さんなの?」
「うちには守秘義務ってのがあるの」
 なるほど。
「確かに。ご店主も箸使い上手だもんね」
「そりゃ仕事だからね」
 さ、店じまい、と引き戸を開けて、暖簾を軒先から仕舞い込む。
 外からの風はまだ、日中の熱さを孕んで生温い。


   箸づかひきれいな男夏暖簾 帯屋七緒

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日本列島が熱病のような、息も詰まる暑さに覆われていますね。
まさに酷暑。
熱中症にかからなくても、ただこの暑さを耐え忍ぶだけでも消耗します。
ましてや、西日本の豪雨被災地、その少し前にあった大きな地震の被災地では、どれだけ過酷な状況かと胸が詰まります。
どうかどうか鎮まってくださいと、天に祈る思いです。
皆さまもご自愛くださいませ。

これだけ暑くても、食欲は落ちずにいます。
夏痩せすると、それはそれはみすぼらしい姿になるので、気をつけているということもあるのですが、美味しいものを食べに行こうと誘ってくれる友人がいるので、夏も元気に乗り切れます。
先日は(数)年に一度の贅沢で、日本料理のお店でコースを頂いてきました。
作り話に登場するお料理は、そちらで実際に食べたもの。まだまだ美味しいお料理はありましたが、これぐらいで。
また頑張って働こう…。


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by bowww | 2018-07-23 14:17 | 作り話 | Comments(0)

遊ぼ。(小暑)

 覚えているのは、レースのカーテン越しに見る、真っ白な眩しい光。
 暑さと陽射しの強さが極まると、色が消えてしまう。ような気がする。

 なんてことは、大人になった今だから思うこと。
 あの頃の僕は、ただカーテンの向こうに見える世界を、目をしぱしぱさせながら眺めていただけだ。
 子供たちが、はしゃぎ声を上げて駆けていく。
 男の子も女の子も、こんがり日焼けして、汗をかいた額に前髪を張り付かせて、わぁわぁと。
 近所の子たちだ。
 僕はカーテンの隙間から、そっと覗き見る。
 どこに行くんだろう、何をして遊ぶんだろう。
「『遊ぼ』って言ってみたら?」
 母の声に、僕は首を引っ込めた。
 絵本に出てくる、臆病な亀みたいだ。

 僕は小児喘息だった。
 少し無理をすると、すぐにゼィゼィと息が苦しくなる。
 初めての子だったから両親はとても心配して、僕は一時、超・箱入り息子になっていた。
 幼稚園にもほとんど行けないまま、来年は小学生になるというのに、友達は一人もいなかった。
 さすがに親も心配になったらしい。
 近所の子供たちと遊べるようにと、母に付き添われて公園や児童館のような場所に行くのだけれど、僕は完全に気圧されて、すごすごと退却するばかりだった。
 一人で遊ぶ方がずっといい。
 そう思いながらも、遠くから、賑やかな輪を羨ましく眺めていた。

 海に行ってみたいな。山に行ってみたいな。
 絵本の中なら、僕はどこにでも行けた。
 絵本の中なら、僕は人気者になれた。
 風が通る涼しい部屋に寝転がって、何度も読んだ絵本を広げる。
 綺麗な青色が幾重にも重なって、海の中を描き出していた。
 小さな黒い魚の冒険を、何度も辿る。
 その魚を、つと指差した。
 僕の指じゃない。僕のより、少しだけ細い人差し指。
 目を上げると、女の子が居た。
 僕と同じように寝転がって、真剣に絵本を覗き込んでいる。
 僕が気づいたことに気づくと、口を「あ」の形に開けて飛び起きた。
「ねぇ、待って!絵本好き?ほかにも沢山あるんだ、好きなら持ってくるよ!」
 僕は必死に呼び止めた。
「これね、この魚ね、すごく賢いんだよ。僕、読んであげようか」
 女の子は動きを止めて、そろそろと座り込んだ。
 膝を抱えて、じっとしている。
 僕は絵本の最初に戻って、声を出して読み始めた。
 字が読めて良かったと思いながら。
 つっかえつっかえだったけれど、何とか最後のページまで読み終えた。
 女の子もさっきと同じように寝転がって、絵本をじっと見つめていた。
 足をパタパタパタパタさせている。
「次、どれか読む?どんなのが好き?」
 調子に乗った僕が絵本を2、3冊引き抜いて振り向くと、女の子はもう居なかった。

 でも、その日から、僕が絵本を広げればいつでも女の子はやってきた。
 いつの間にか傍に居て、絵本を覗き込んでいる。
 絵本の中に気になることがあると、細い人差し指でトントンとそこを叩く。
 僕は得意になって、「これはゴリラ。大きなお猿さん。バナナが好きなんだよ。これは象さん。すごく大きいんだ」などと説明してやった。
 そのうち、僕が絵を描いているときもやってくるようになった。
 色鉛筆やクレヨンを、不思議そうに眺めている。
 僕が落書き帳に気まぐれな線を描いてみせると、パッと顔が明るくなった。
「ねぇ、虹って見たことある?」
 女の子は首を傾げた。
 大きな大きな黒い目。
 真正面から見つめられると、ちょっとドキドキする。
 僕は色鉛筆を七色選んで、アーチ型に線を描いた。
「僕も本物は見たことないんだけどね、すごく綺麗なんだって」
 女の子は黒いクレヨンを手に取った。
 僕の描いた虹のてっぺんに、ちょこんと黒い魚を描いた。
 海の中にも、虹って出るのかな。
 でも、足をパタパタさせている女の子が満足そうだったから、僕は黙っていた。
 
 隣の家に新しい家族が引っ越してきた。
 僕と同じ年の男の子が居た。
 お母さんと一緒に挨拶に来た。
 僕と同じぐらい、白くて細っこい男の子だった。
 お母さん同士のお喋りが始まって、僕たちはほったらかしになった。
「…遊ぶ?」
 男の子は自分の靴の先を見たまま、独り言みたいに言った。
 僕も下を向いたまま、「いいよ」と答えた。

 初めは家の中でそれぞれで絵本を読んで、その次はゲームをして、その次は隠れんぼをして、そして外に出て…。
 僕はいつしか、「遊ぼ!」と大きな声で言えるようになっていた。
 毎日、隣の子と遊ぶのが楽しくて仕方がなかった。
 腕がこんがり日に焼けた頃、ふと思い出した。
 あの子がいない。
 小さな賢い魚の絵本を広げても、虹の絵を描いても、女の子はもう現れない。
 僕は泣いたかも知れない。
 そういうものなんだと、諦めたのかも知れない。
 いずれにしても、新しい友達との毎日に夢中になって、女の子のことはすっかり忘れてしまっていた。

 実家から送られてきた荷物の中に、古い絵本が混じっていたのだ。
 一匹だけ黒くて小さくて、でもとても賢い魚の話だ。
 懐かしくなって本を開けば、裏表紙に下手くそな虹の絵。
 てっぺんには黒い魚が乗っかっている。
 パタパタパタパタ。
 後ろで、懐かしい音がした。
 少し人見知りな僕の娘に、この絵本をプレゼントするつもりだ。


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例年よりもずっと早く梅雨が明けたかと思ったら、空の底が抜けたような大雨。
大きな災害になってしまいました。
どうか少しでも早く、鎮まりますように。
祈る思いでニュースを見ています。
穏やかな青空が恋しいですね。

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子供の頃、同じ年頃の子供が苦手でした。
弟が生まれるまでは一人っ子、箱入り娘。
家の中で遊ぶのが好きだったので、賑やかな友達たちが怖かったのです。
もう立派な中年になった今も、実は「あ~そぼ!」がなかなか言えません。
でも、誘ってもらうととても嬉しかったり。
B型は、「寂しがり屋の一人好き」なのだそうです…。



 
 
  


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by bowww | 2018-07-07 21:40 | 作り話 | Comments(0)

長かりし(夏至)

 歩きながらカーディガンを脱ぐ。
 一日中、オフィスの中で仕事をしていると、外の気温や湿度に疎くなる。
 冷房が利き過ぎた室内は肌寒く、カーディガンが手放せない。
 そのまま帰路についてしまった。
 外に出れば意外と蒸し暑い。
 脱いだカーディガンは丸めて鞄に突っ込む。
 むき出しになった二の腕に、湯気が立つような空気が絡み付く。

 コンビニに寄ろうか、本屋を覗こうか、ドラッグストアで何か買うものはなかったかしら。
 どの店も、入ればつい、余計なものを買ってしまう場所だ。
 懐具合を頭の中で勘定して、寄り道を思いとどまる。
「寂しい女は無駄遣いが多いんだよね…」
 呟いて笑おうとして笑えない。自分の言葉に躓いている。
 家に帰っても誰もいない。
 独り身の気楽さにはしゃぐ日もあれば、ぱさぱさの古いパンを噛み締めるような気持ちの日もある。
 今日は古いパンの日だ。
 特に何かあったわけでもない、と一日を振り返る。
 上司に叱られてもいないし、厄介な電話も受けてない。同僚との会話も当たり障りなかった、と思う。
 普段通りに仕事を片付けて、定時に上がれた。
 なのに、どうしてぱさぱさするのだろう。
 天気のせいにして空を見上げる。
 低い位置にある雲に、街の明かりが反射するのか、空全体がぼんやりと明るい。
 暮れるのが遅い時期ではあるけれど、この街の空は一晩中、こんな感じに発光している気がする。
 今日は一際、雲が低い。

 左の二の腕を、何かが掠めた。
 小さな公園の横を歩いているときだった。
 夕暮れの模糊とした薄明かりの下で、いじけたような小さな花を咲かす紫陽花も、潔い白色を浮かび上がらせていた。
 花でも買って帰れば、気持ちが晴れるだろうか。
 さらり。
 ほんの微かな、産毛がサワと揺れる程度の感触。
 風でも通り抜けたかと、左側に目を向ける。
 男の子がいた。
 賢そうな瞳と白く広やかな額。柔らかそうな髪。
 紺色の半ズボンに真っ白な糊の利いた半袖シャツ。
 そして、背中には羽。
 ……羽、か…。
 男の子に歩調を合わせ、さりげなく背中を確認する。
 鳥の翼とは違う、トンボやカゲロウが持っているような透明な羽。
 ガラス細工のように美しいけれど、どうやら本物らしい。
 さきほど腕を掠めたのは、この羽だろう。
 小さな背中に不釣り合いなぐらいに大きいが、今は行儀良く閉じられている。
 男の子が訝しげにこちらを見上げ、足を速めた。
 怪しいおばさんだと思われただろうか。
 少し迷って、とりあえずにっこり笑って見せた。
 …余計に怪しかっただろうか…。
 だが、男の子の肩から力みが抜けた。
 ほっとしたが、こんなに素直だと悪い大人に騙されないか気になってくる。
 せめて、人通りが多くなる所まで一緒に歩こう。

 男の子の足取りが、少し重くなった。
 美しい羽が、心なしか張りを失くして見える。
 歩くリズムがゆっくりになって、乱れがちになって、やがて、止まった。
 白々とチカチカと光る自動販売機の前。
 男の子は一心に、並んだ飲み物を見上げている。
 白い額が青く透き通ってしまいそうだ。
「…もしかして、水?喉が渇いた?」
 できるだけ静かな声で訊いてみる。
 男の子はチラッとこちらを見て、自販機に目を戻した。
 節約期間だけれど、ジュースを買う小銭ぐらいは持っている。
 缶コーヒーは論外だろうし、お茶も好きではなさそう。
 一つずつ指を差して、男の子の表情を確かめた。
 フルーツジュース? ミネラルウォーター? ソーダ水?
 蛍光色のラベルの炭酸飲料で、男の子の羽がふわりと揺れた。
 これらしい。
 取り出し口からペットボトルを引っ張り出し、キャップを緩めてから男の子に手渡す。
 彼は恐る恐る、口をつけた。
 羽がふわり。
 白い喉を仰け反らせて、ごくごくと飲み続ける男の子を見て、ほっと一息つく。
 羽は再び張りを取り戻し、時々、虹色の光が走る。
 ペットボトルが空になると、男の子は静かに羽を広げた。
 二度三度、試すように動かす。
「ちゃんと帰れそう?」
 羽は細かく、でも力強く振動している。
 男の子は、一度だけふわりと浮き上がり、満足そうに地面に戻った。
 にっこり笑って見せると、元来た道を駆けていった。
「…飛ばないんだ」
 何だか可笑しくなって、一人でいつまでも笑い続けた。

 結局、安い白ワインと、半額になっていた紫陽花の鉢を買って家に帰った。



  夏至過ぎし逢う魔が時の長かりし 稲畑汀子

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壮大なファンタジーの世界に心攫われるのも大好きですが、日常の地続きにある「ちょっとだけ不思議」はもっと好き。
目と耳を澄ませば、いつか会えるんじゃないか。
…そう思いながら、きっとおばあさんになるんだと思います。。
困ったものです。


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大阪の地震、一番の友達が住んでいる場所だけに、彼女の安否が確認できるまで気が気ではありませんでした。
梅雨時、今度は土砂災害も心配です。
どうか一刻も早く、穏やかな日常が戻ってきますように。
そして、自分もちゃんと備えなくてはいけないと改めて思いました。






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by bowww | 2018-06-21 22:48 | 作り話 | Comments(0)

走り梅雨(芒種)

 タカハシ君は、バスの時刻表を見て思わず舌打ちをしました。
 次のバスが来るまで、一時間近く待たなければいけません。
 営業で訪れた地方都市は交通の便が悪く、得意先の会社へ行くには、駅からバスかタクシーを使うしかないのです。
 行きは運良くタクシーを捕まえたのですが、帰りのバスの時間を確認し忘れていました。
 空には重たい雲が広がり、今にも降り出しそうです。
 タカハシ君は、待合室のベンチにべたりと腰を下ろしました。
 仕事は思っていたよりはかどらず、提案を練り直してくるようにと注文を受けました。
 契約がまとまるまで、まだ時間がかかりそうです。
 今月の営業成績があまり良くなくて、今朝も上司からプレッシャーをかけられたばかりなのです。そんな状態で行き帰りにタクシーを使ったとなれば、嫌みを言われるのは目に見えています。
 タカハシ君は、先方の担当者の顔を思い出して溜め息をつきました。
 タカハシ君より若い彼はいつも、きれいなシルエットのスーツとピカピカに磨き上げた靴、ブランドの腕時計を身につけています。
「ああいうシュッとした奴、苦手なんだよな」
 俯けば、擦り傷だらけの黒い革靴と、膝が抜けかけたズボン。
「ああ!帰りたくねぇ!」
 ベンチに背中を預けて、思わず声が漏れました。

 バス停は小さな商店街の中ほどにありました。
 商店街といっても、ほとんどはシャッターを閉め切ったままです。
 バス停から見える範囲では、床屋が一軒、「チケット買い取ります」と看板を掲げた金券ショップが一軒、古本屋が一軒、店を開けているぐらいでした。
 今日は曇り空で暮れるのが早いせいか、早々に明かりが灯りました。
 床屋はそろそろ店じまいのようです。
 金券ショップの店員が、携帯電話で何か話しながら店の外に出てきて、そのままそこで煙草に火を点けました。
 微かに煙草のにおいが流れてきます。
 三回目の禁煙に挑戦中のタカハシ君は、スマホを取り出してゲームで気を紛らわせました。今度、禁煙に失敗したら、同僚にビールを奢る約束をしているのです。
 道を挟んでバス停と向かい合わせの古本屋に、制服を着た女子高校生が入りました。
 タカハシ君は、なんとなく彼女の後ろ姿を見送りました。
 古本屋の軒先には、文庫本を詰め込んだワゴンがあります。「1冊50円」と殴り書きした厚紙が、ぱたんぱたんと風に煽られていました。
 店構えは古びてくすんで見えるけれど、高校生も入るような店なら、最近の本や漫画も置いてあるのだろうか。
 タカハシ君はスマホの画面から目を上げて、ぼんやりと明るい古本屋の店の中を眺めました。
 店の奥、入ってつきあたりの壁面は、背の高い書棚になっているらしく、びっしりと本が並んでいるのが見て取れます。
 高い場所にある本を取るためなのか、梯子が無造作に立てかけられていました。
 女の子がその梯子を自分で動かして、軽やかに上っていくのが見えました。
 案外と天井が高い店なのかも知れません。
 女の子の姿は、すぐに見えなくなりました。上の方で、欲しい本を探しているのでしょう。
「最近、本読んでないな」
 タカハシ君は呟きました。隙間の時間は、ついスマホをいじってしまいます。
 この前、読み終えたのはいつだったっけと思い返していると、店内にもう一人、客がいることに気がつきました。
 後ろ姿しか見えませんが、七十代ぐらいの男性です。ショルダーバッグを斜め掛けにして、本棚を見上げています。
 そして梯子をぐっと左に寄せて、ゆっくりと上り始めました。
「…あれ?」
 さっきの高校生は、いつの間に降りてきたのだろう。
 梯子の上に、まだ居たと思ったのだけれど…。
 戸惑っているうちに、おじいさんの姿も見えなくなりました。
 梯子の先に、もう一つ部屋があるのだろうか。
 でも、外から見る限りでは平屋建ての建物です。
 タカハシ君はスマホを胸ポケットに仕舞いました。
 梯子の下に、今度は中年の女性客が立ちました。買い物帰りなのか、不格好に膨らんだ袋をぶら下げたままです。
 その荷物を持ったまま、片手で梯子を掴むと、器用に上り始めました。
 高校生もおじいさんも、降りて来た気配はありません。
 タカハシ君はついに立ち上がり、道路を渡りました。
 ワゴンに積まれた文庫本を一冊抜き出し、店内に入りました。

 重いドアを押して店に入ると、インクと古い紙の匂いに包まれました。
 小学校の図書館は、こんな匂いだったかも知れない。
 店内は思ったより広く、背の高い書棚が立ち並んでいます。
 背表紙を見せて整然と並ぶ本たちは、申し合わせて黙りこくっているみたいです。
 誰も居ません。
 客はもちろん、店主らしき人も見当たりません。
 紙が音を吸い込んでしまうのか、耳をやんわり覆われているように静かです。
 オレンジ色の電球では店の隅々まで照らしきれず、影があちこちに凝(こご)っています。
 梁が見える剥き出しの天井はやはり高いのですが、二階や屋根裏部屋があるようには思えません。
 タカハシ君は恐る恐る梯子に近づきました。
 年季の入った木製の梯子はずっしりと重く、触れると、ひんやり湿った木肌が手のひらに吸いつきます。
 梯子のかかった先は薄闇です。
 タカハシ君は梯子の一番下の段に足を掛け、伸び上がってその薄闇に目をこらしました。
 びくり。
 と、タカハシ君は肩を震わせました。
 薄闇が、動いた気がしたのです。
 照明が風に揺れたのでしょうか。
 タカハシ君は、一段、梯子を上りました。
 微かな音が、上の方から聞こえます。
 人の声?楽器の音?
 聞き覚えがあるような、口ずさみたくなるような…。
 また一段、さらに一段。
 梯子がきしりと軋みました。


 いつの間にか、細かな雨が降り出しました。
 古本屋から漏れた光が、濡れた路面に滲みます。
 バスが来ました。
 おばあさんが降りたのを見届けると、バスは空っぽのまま停留所を離れました。


  古書店の奥の梯子や走り梅雨  高勢祥子

 
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いよいよ梅雨入り、雨の季節です。
せめて気持ちだけは、すっきり風通しよくしたいな、と思います。
写真は東京の三菱一号館美術館。
この建物が好きで、何度も訪れています。
古い建物は、雨が似合うように思います。




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上の写真は、長南芳子さんの作品です。
大学で鍛金を学ばれて、アクセサリーやオブジェを発表しておられる工芸作家さん。
松本のぎゃるり灰月さんでの個展にお邪魔しました。
金属片や天然石の欠片、歪さが魅力のバロックパールなどを使ったアクセサリーは、宝物のようにそっと眺めていたくなるものばかり。
こちらの作品は、金属片を継いで加工して、最後は土に埋めて仕上げたもの。
緑青の付き具合は、土任せ・時間任せなのだそうです。
まるで種を蒔いて、育つのを待っているみたい。
緑青が一際鮮やかなこのネックレスを、選んで持ち帰りました。
「ツモルトキ(積もる時)」。
長南さんの作品はどれも物語を孕んでいるので、とても惹かれるのだと思います。
東京・谷中にあるアトリエの名前は「穀雨」だそうです。
いつか行ってみたい、憧れの場所です。



 
 
 

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by bowww | 2018-06-06 23:48 | 作り話 | Comments(2)

ポケット(小満)

 真夏のような陽気に急かされて、放っておいた冬物のコートを、ようやくクリーニングに出すことにした。
 私のコートが三着、夫のコートが二着。
 それぞれポケットの中を点検する。
 私のダウンジャケットのポケットからは、クシャクシャになったコンビニのレシートが出てきた。よそ行きのカシミヤコートからは美術展のチケットの半券。
 目立った汚れやほつれがないことを確認して、夫の通勤用のコートを手に取る。
 ずしりと重い。
 夫が部長になったとき、「コートぐらいは良いものを」と奮発して買ったウールのチェスターコートだ。
 以来、定年まで着続けたのだから、まあまあ元は取ったというものだろう。
 夫は、シャツや靴下は脱ぎっぱなしでも、コートとスーツ、靴の手入れだけは怠らなかった。
 こまめにブラッシングされたコートは、それでも僅かに埃のにおいがする。
 左のポケットからはガムの包み紙。内ポケットからは夫自身の名刺が一枚。
「女の人の名刺じゃなくて良かったわね」と、独り言が出る。
 昔々、香水の匂いが染み付いた名刺が出てきて、大騒ぎになったっけ。
 右のポケットから、私のと同じチケットの半券。
 美術展に誘ったら、珍しく「一緒に行くか」と、付いてきたのだ。
 あの後、何十年ぶりかで二人だけで外食した。
 仕事の付き合いでよく使ったのだというフレンチの店に連れて行ってくれた。
 特に会話もない。なくても気にならない。
 ただ、ワインの選び方や、ナイフとフォークの扱い方などがなかなか手慣れていて、内心驚いた。
 私の知らない場所で、夫が積み重ねてきた時間があったのだ。
 思い始めると手が止まる。
 私はわざと、バタバタ乱暴にコートを叩いた。
 こつん。
 硬い感触が手のひらに当たる。
 右のポケットに、まだ何か入っているらしい。
 男物のコートはポケットも深い。思いきり手を突っ込んで底を探る。
 指先が、ひやりと冷たく丸っこい物を捉える。
 摘み出してみれば、ガラス玉。青いマーブル模様が揺れるビー玉だった。
 手のひらに乗せて、しげしげと眺める。子供の頃、こんなビー玉をたくさん集めたっけ。
「それにしても、何故?」
 ビー玉なんか、どうしてポケットに入れていたのだろう。夫が自分で入れたのだろうか。息子家族とは離れて暮らしているから、幼い孫の悪戯だとは思えない。
 私の体温で少し温まったビー玉は、手のひらに鎮座している。

 定年を迎えた日の夜、帰宅した夫に「長いことお疲れさまでした」と言うと、夫は「いやいやいや」と手をパタパタさせて照れ笑いをした。
「母さんにも苦労かけたな」と、殊勝なことを言うものだから、「苦労かけたと思うなら、何か形にしてくださいな。お父さんからのプレゼントなんて、もう何十年貰ってないか…」とまぜっ返した。
「いいぞぉ。ダイヤか?真珠か?でかいのを買ってやる」
 送別会で飲んだせいだろう、陽気な答えが返ってきた。
「宝石なんか要りませんよ。ガラス玉で充分なの」
 夫はちょっと真面目な顔になって、「ほんと、母さんには感謝感謝だな」と呟いて、ちょんと頭を下げた。

「まさか、本当にガラス玉をくれる気だったの?」
 真新しい仏壇に、ビー玉を置く。
 もちろん答えはない。
 写真の夫がにやりと笑ったように見えたのは、光の加減だろう。
「ガラス玉でもね、嬉しいものなのよ」
 ビー玉に朝の光が当たる。

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写真のミニブーケは、健やか美人な園芸家さん(とお呼びすればいいのかしら。農家さん?)の手作り。
育てているハーブや花を、摘んでそのまま花束にしているとのことですが、とにかくセンスが素敵なんです。ナチュラルなのに、シックでモダン。
ハーブの香りが清々しくて、空気がキレイになる気がします。


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初々しかった新緑は、あっという間に力強くなりました。
田んぼには早苗が整列し、夜はカエルの大合唱です。
今年も近くの神社の林から、カッコウの鳴き声が高らかに聞こえてきます。
良い季節…のはずなのに…。
夏・真夏のような陽気で、職場では早々にエアコンがフル回転。安普請の社屋のため、断熱効果がゼロなのです。
仕方がないとはいえ、毎日何時間も冷風にさらされ、まんまと体調を崩しました。。
頭痛がひどく、パソコンの画面を見るのもつらく、いつも楽しみにしている方々のブログも、拝見できない日が続きました。
やっと復調。
あらためてお邪魔させて頂きたいと思っています。
ちなみに、職場のエアコンには、プラスチックダンボール(通称プラダン)で風除けを拵えて取り付けてやりました。
良い仕事をした、と自画自賛しています。


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by bowww | 2018-05-21 06:49 | 作り話 | Comments(2)

透きとほりけり(立夏)

 木になるのだという恋人を、ぼくは結局、引きとめられなかった。
「どうして、木になんかなりたいの?」
 なにか悩み事があれば一緒に考えるし、寂しいなら二度と一人にしたりしない。
 君の話をもっとちゃんと聴く、悪いところは全部直すから。
「あなたに不満があるわけじゃなくて…」
 困ったように笑って、恋人はぼくを抱きしめた。
 ああ、もう決めてしまったんだと、彼女の腕の涼やかさに思い知らされる。
「生まれ変わってからでも遅くないのに…」
 むだだと分かっていても、腕の中で駄々をこねる。
「来世なんて信じてないくせに」
 耳元で弾ける笑い声に、ぼくはつい釣られてしまう。

 滑らかな樹皮に、すんなりと伸びた枝。
 一枚一枚、几帳面に整った葉が、良い匂いがする風に揺れる。
「綺麗な若葉だね。君らしい」
 ぼくの声は聞こえているのだろうか。
 ぼくのことを覚えているのだろうか。
 幹に触れようとして、思いとどまる。
 気やすく触れたら叱られそうだ。
 翡翠色の木漏れ日に、ただ染まる。
 

  さびしさも透きとほりけり若楓 永島靖子


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by bowww | 2018-05-05 19:51 | 作り話 | Comments(0)

春雨や(穀雨)

 まだ若いのに大した腕前だ、立派な跡継ぎだ。
 そんな世間の評判に、自惚れていたのだろうか。
 庭師は、大奥様の顔を一目見て、自分の失敗を悟りました。
 大奥様は「…あぁ」と小さく声を漏らすと、すぐにその声を引き戻すように口を閉じました。
 そして、いつもの穏やかな笑顔で、「ご苦労さまでした」と庭師を労いました。
 今のはきっと、溜め息だった。
「まぁまぁ!私の好きな花ばかりね。よく覚えていてくれたこと」
 大奥様は朗らかに言葉を続けます。
 でも、その言葉は庭師の耳には入りません。
 大奥様は自分の仕事にがっがりしたのです。
 何がいけなかったのだろう、難しい仕事ではなかったはずだ。
 庭師はそっと、花盛りに仕立て上げた庭を見回しました。

 お屋敷の若い主から依頼を受けたのは、冬の終わりのことでした。
 主の父親である大旦那様が亡くなってから、大奥様が鬱ぎがちだというのです。
「だから、離れの庭を賑やかにしてほしい」
 母親の気持ちを、少しでも明るくしてやりたいという思いやりなのでしょう。
 庭師は二つ返事で引き受けました。
 お屋敷には、父の代から出入りさせてもらっています。
 こぢんまりとした離れの庭も、大奥様の花の好みもよく知っています。
 一昨年の早春、一輪二輪と綻びかけた梅の花を嬉しそうに見上げるお二人の姿が、庭師には忘れられませんでした。
 春夏秋冬、花が絶えない明るい庭を拵えよう。
 庭師は張り切りました。
 紅梅白梅から始まって、沈丁花、臘梅、連翹が咲く頃には枝垂れ桜も、やがて八重桜に代わって、それから桃。雪柳は生け垣に使って、山吹も取り混ぜて、皐月が来れば一重の薔薇の季節に…。
 苗木の一本一本まで吟味して植えた花木たちは、庭師の思った通りに咲いてくれたのに。
 無数の砂糖菓子のような花桃を見つめる大奥様の横顔は、やはりどこか晴れません。

 庭師は考え込みました。
 父から厳しく仕込まれた庭造りの技は、どこに行っても喜ばれました。
 だからこそ、お屋敷での仕事も任されているのです。
 離れの庭も、依頼主である主には満足してもらえました。
 何が足りないのだろう。
 師匠でもある父は、彼に仕事を譲って気が緩んだのか、ここ数年はすっかり寝込みがちになっていました。自分の失敗で煩わせるわけにはいきません。
 庭師は縁側に腰掛け、ぼんやりと庭を眺めました。
 紺屋の白袴とはよく言ったもので、自分の家の庭は大して手も入れず、花木は野放途に枝を伸ばしています。
 今は八重の山吹が、黄金色の花枝を重たげに揺らしていました。
「少しは枝を詰めたらどうだ」
 いつの間にか、寝間着姿の父親が庭師の後ろに立っていました。
 今日は加減が良いようです。
「まったく、自分ん家はほったらかしときたもんだ」
「父さんだって同じだっただろ」
 ふふんと鼻先で笑うと、父親は庭師の隣にしゃがみ込みました。
 肩がすっかり薄くなったと、庭師は思いました。
「しかしあれだな、盛りの花は疲れるもんだな」
 満開の山吹に目を遣りながら、父親がぽつんと呟きました。
 庭師は、父親の顔を見返しました。
「力負けってやつかな。年取るとな、花の勢いに気圧されるんだよ。
 庭の仕事してて花に負けちまえば、おまんまの食い上げだよなぁ」
 からりとした笑い声を残して、父親は部屋に引き返しました。

 庭師は翌日、お屋敷に行って、離れの庭の造り直しを頼み込みました。
 花の木を数本残しただけの簡素な庭に、主は「殺風景過ぎる」と首をひねりました。
「大奥様、来年の春までお待ち下さい」
 熱心に頭を下げる庭師に、大奥様は優しく頷いてみせました。

 寒い冬が過ぎ、陽射しが和らぐ頃、離れの庭で紅梅が咲きました。
「今年も咲いてくれた」
 足元には福寿草。
 大奥様はほっと笑みを零しました。
 一週間ほど経つと、庭の隅に、緑の小さな芽がぴょこぴょこと顔を出しました。
 大奥様は毎朝、緑の芽の成長を楽しみに庭に立ちました。
 やがて、スイッと伸びた茎の先に、透き通った黄色の水仙が咲きました。
 気づけば小さな紫色の菫もあちこちに。
 あたたかい雨が降った翌日には、草花もぐっと色濃く鮮やかになります。
「ゆっくり、ゆっくりね」
 雨上がりの庭で、大奥様は深く息を吸い込みました。


  春雨や美しうなるものばかり 加賀千代女


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取り急ぎ、作り話更新。
もう既に、初夏の気配。
気温と気圧の変化が激しすぎて、春バテしそうです。。

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by bowww | 2018-04-20 22:25 | 作り話 | Comments(0)

花散らし(清明)

 手のひらを出せと言う。
 戸惑いながら、左手をさし出す。
 両方、出せと言う。
 右の手のひらを、左に添わせる。
 ひら、と何かが触れる。
 冷たい柔らかさに、指がたじろぐ。
 しっかり受けろと言う。
 仕方なく、両手を器の形にする。
 ひら、ひらひら。
 ひとひら、ひとひら。
 わずかに発光する透明な欠片。
 受ければ、肌の上でしなりと緩む。
 ひとひらひとひらひとひらひとひら。
 両手の器に、小止みなく降り積もる。
 これは桜。
 無数の花びら。
 重なって重なって、白に滲む紅。
 溢れてしまいます。
 訴えても答えはない。
 仰げば曇天。


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小さな野の花たちが咲き、香りで梅に気づき、モクレンが霜に遭わないように祈り、やがて咲く桜を心待ちにする。
…のが、春なのに。
今年の春といったら!
野の花、水仙、梅、白木蓮、紫木蓮、辛夷、山茱萸、雪柳、連翹、木瓜、小彼岸桜、枝垂れ桜、ソメイヨシノ。
何もかも一斉に、ぶちまけるように咲いてしまいました。
初夏の陽気に、桜は開花2日で満開です。
ここの桜、あちらの桜と訪ね歩くのが楽しみなのに、とても追いつきません。
花々の狂宴に、呆然と立ち竦む思いです。
ただ、私の住む辺りでは今日が入学式という小学校が多く、満開の花の下、ピカピカのランドセルを背負った小さな子供たちをたくさん見かけました。
いいなぁ、桜咲く入学式。この辺りでは珍しい光景です。
思わず頬が緩みました。
楽しいことがいっぱいありますように。

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明日から週末にかけて、春の嵐が吹き荒れるようです。
花散らしの雨風ですね。





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by bowww | 2018-04-05 21:37 | 作り話 | Comments(0)