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群青カフェ〜処暑〜

 平日の昼過ぎ、普段なら空いているはずの電車も、観光客らしき人たちの姿でそこそこ混雑している。
 隣に座った若いお母さんの腕には、むちむちの赤ちゃんが抱かれていた。
 お盆を過ぎても暑さは厳しい。小さな子供を連れての移動は大変だろう。
 お母さんはガーゼのハンカチで、我が子の首やおでこの汗を拭ってやる。そしてそのハンカチで、汗ばむ自分の顔をパタパタと扇いだ。
 赤ちゃんは機嫌よく手足をばたつかせ、「あぁ、あ、あ」と声を上げた。
 私に気がつき、小さな手を伸ばしてくる。
「ああ!ごめんなさい!」
 お母さんが慌てて抱え直す。
「いいえ」
 普通ならここで、「可愛いですね、おいくつですか」などと答えるのだろうか。
 近くに、おばあさんが立った。
「良かったらどうぞ」
 私は、おばあさんに席を譲って親子から離れる。
「まぁ!男の子なの?可愛いお顔だから、女の子かと思った!」
「よく言われるんです」
 私がさっきまで座っていた席から、早速、楽しげな声が響いてくる。
 車窓に目を遣る。
 この前、この電車に乗ったのは十年以上前だったか。
 のどかな田園風景はほとんど変わららないものの、真新しい住宅地が増えたように思う。
 不意に、腕に赤ん坊の重さを思い出す。
 ぐにゃぐにゃと頼りないくせに、熱くて、みっちりと中身が詰まった重さ。
 圭介。
 詰めていた息を、そっと吐き出す。


 
 「別れたい」と告げると、浩二は、きょとんと私を見つめた。
 親子三人で花火大会へ行った。
 圭介は、夜店で買ってやった黄色い風船を、飛んでいかないように、割れないように、注意深く家まで持ち帰った。
 部屋に入って、紐を握りしめていた手をようやく緩め、風船を放つ。
 天井近くにふわふわ浮かぶ風船を見上げて、「ほら見て!お月さまみたい」と私たちを振り返った。
 圭介の寝息を確かめてから、浩二に離婚を切り出した。
「…冗談?何言ってるか、分かんないだけど…?」
 浩二とは、都心に完成したばかりのシティホテルで出会った。
 美大を卒業しても、もちろんすぐに絵描きとして稼げるはずもなく、アルバイトをしながら細々と描きためていた。
 つてを頼って、インテリアになるような小品を描いては納品する仕事を貰っていた。
 新しく出来たホテルの備品として、私の絵が数点売れたと聞き、様子を見にホテルを訪れたのだった。
 私の絵は、十七階のフロアのエレベーターホールに飾られていた。
 焦茶色をメインにした瀟洒な内装に、私の描いた抽象画が見事に馴染んでいる。
 溶け込み過ぎて、記憶に残らない。心に何も引っかからない。
 インテリアの一部に過ぎない。もちろん、作者の名前なんて不要だ。
 私は皮肉な思いで、自分の作品を眺めていた。
「…へぇ…!」
 背後の声に驚き、振り返る。
 スーツ姿の男性が、私の絵をしげしげと見ていた。
 床に敷き詰められた絨毯で、彼の足音に気がつかなかったのだ。
 私の視線に気づくと、男性は照れくさそうな顔で弁解した。
「すみません、綺麗な色だなぁと思ってよく見たら、本物の絵なんですね。
 ちゃんと絵の具の跡があって、びっくりしたんですよ」
 複製か何かかと思ったらしい。
 子供みたいな感想に、私は思わず笑ってしまって、
「実はそれ、私が描いたんです」と告げた。
「えっ!うわっ!すげぇ!本物の画家さんなんですか!」
 子供みたいな賞賛が、すとん、と胸に届いた。
 こんなの、全然すごくない。お金のために描いただけ。なんの思想も信念もない絵。
 感謝と言い訳が心の中で入り混じり、言葉をなくした私を見て、
「…すみません、俺、絵とか芸術の知識、全然なくて…。
 失礼なこと言いました」
と、男性は頭を下げた。
 それが浩二だった。
 好きで描いていたはずなのに、大学に入ったら才能がある人たちが掃いて捨てるほど居て、自分の足りなさを嫌というほど思い知らされ、打ちひしがれたまま卒業した。
 どうしたらいいのかどうしたいのか、分からなくなっていた私は、この時、間違いなく浩二に救われたのだと思う。
 そして浩二と結婚し、圭介が生まれて、穏やかな日々に感謝していたはずだった。
「真那!黙ってても分からない、ちゃんと説明してくれよ。
 何が不満なんだ?俺、何か悪いことしたか?」
 久しぶりに名前で呼ばれたと、ぼんやり思っていた。最近は圭介にも浩二にも、「ママ」と呼ばれてばかりだった。
 浩二は出来るだけ冷静に、論理的に「なぜ?どうして?どうすればいい?」と、話し合おうとしている。
 私は不意に苛立ちを覚えた。
 自分でも驚くぐらい、強烈に。
 どうせ分からない。浩二には一生、分からない。
「…好きな人ができたの」
 言った途端、浩二の目に、驚きと怒り、そして多分、恐怖が浮かんだ。
 見ず知らずの他人に出会い頭に殴られたような、理不尽な恐怖。
 それを見て、私はようやく気が済んだ。

 圭介が小学生になって、自分の時間が少し出来た。
 大学時代の先輩から、個展の案内の葉書が届き、私は気まぐれに出かけてみることにした。
 矢ケ瀬さんは四歳年上で、学生時代から将来を嘱望されていた。
 大きな公募展でも何度も入賞を重ね、「若き気鋭の日本画家」と業界にも注目されたが、自分のペース崩さずに創作を続けていると友人たちから聞いていた。
 個展の会場となった画廊には、贈られた沢山の花が並び、香りに噎せ返りそうだった。
 矢ケ瀬さんの絵は、とにかく黒が美しい。
 月夜の滝だろうか、深々とした森の奥で滔々と水を吐き出し続ける滝。水しぶきが鈍く輝く。
 岩絵具を幾重にも塗り重ねて、質感に奥行きを感じさせる。
 豊かな黒に圧倒されていると、ギャラリーの片隅の小品に目が止まった。
 女の人の後ろ姿。木炭を、手すさびに走らせたような素描。
 座った状態で、体を少し左にひねった瞬間を捉えたものだった。
 裸の肩甲骨や背骨の陰影が艶めかしく、ただ背中と黒髪だけの描写なのに、匂うような色香があった。
「江藤?久しぶりだなぁ!
 …あれ?今の苗字、なんだっけ?」
 作者が現れた。
「お久しぶりです、矢ケ瀬先輩。
 今は真田です、一児の母です」
 炭黒のTシャツに紺色のジャケットを羽織った先輩は、学生時代とほとんど変わらないように見えた。
「これは?先輩の人物画って珍しいですよね」
「これ、学生時代に描いた落書きだよ。
 画廊のオーナーに見つかって、無理矢理引っ張り出されたんだ」
「ふうん…」
 先輩と噂のあった女性たちを思い浮かべる。
「なに?」
「いけすかない絵ですね」
 先輩は爆笑した。
「やっぱり、江藤だよな。遠慮なしだ」
 私も笑う。
 そうだ、私はこうだった。
 大した才能もないくせに、生意気で、口げんかのようなじゃれ合いが好きで。
「どうよ、江藤は描いてるの?
 それとも、ママは絵筆を持たない?」
 先輩は皮肉な笑みを浮かべる。
 私は気の利いた返しをしようとした。
「…江藤?」
 言葉じゃなく、涙が零れた。
 止まらない涙に、自分自身が唖然とした。
 先輩が黙ってハンカチを渡す。
「それ、気に入ってるやつだから。洗濯して、ちゃんと返しに来いよ」
 と言い置くと、人の輪の方へ戻っていった。

 浩二との話し合いは、空が白むまで続いた。
 詰られた。
 酷い言葉で。
 でも、私はそれ以上に浩二を傷つけた。
「…圭介は渡さないぞ」
 椅子にぐったりと凭れかかり、目を左腕で覆った浩二は、低く唸るように呟いた。
 私は頷くしかなかった。
 圭介を育てる資格は、私にはない。
 自ら、「母親」を放棄したのだから。
 昨夜の風船が、しわしわと萎み、テーブルの辺りを頼りなく漂っていた。



 電車が駅に着き、乗客が続々とホームに降り立つ。
 浩二の妹さんが営む喫茶店は、駅から歩いて十分ほどだと圭介が教えてくれた。
 圭介とは、数年前から連絡を取り合っている。
 だが、「会おう」と言ってくれたのは、今回は初めてだった。
 矢ケ瀬先輩と再婚し、今は二人で絵画教室を開いている。
 子供は居ない。
 十年ぶりの圭介の顔、私はちゃんと分かるだろうか。
 何を話せばいいのだろう。
 もしかしたら、圭介に責められるかも知れない。
 「二度と会わない。連絡もするな」と言われるかも知れない。
 それでも、会いたかった。
 会って謝りたいというのは、だが、私の我が儘だろうか。
 駅前の通りを、白く照り返すアスファルトを見つめながら、のろのろと歩く。
「あら、秋の雲ね」
「本当だ、行合(ゆきあい)の空ですね」
 すれ違った二人連れの声に、空を見上げる。
 遠くの山際には、溶けかかかったソフトクリームのような入道雲。
 上空には刷毛ではいたような雲とうろこ雲。
 夏と秋がすれ違う空だ。
 私は上を向いたまま大きく深呼吸して、「群青カフェ」と描かれたガラス戸を開けた。


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by bowww | 2019-08-23 23:57 | 作り話・群青カフェ


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