穀雨

「ここに来れば、会えると聞いたんですよ」
 初老と呼ぶにはまだ早いでしょうか。
 霜降りグレーのハイネックのシャツに、紺色のカーディガンを柔らかく羽織った男性です。
 人懐こい大きな瞳と快活な声の持ち主です。
 私は泉の周りの枯れ葉を寄せ集めていましたが、彼の声が気持ち良かったので手を止めて答えました。
「…どうでしょう、こればかりは運のようなものでして…」
 男性は落胆して、そのまま泉のほとりにしゃがみ込みました。
「遠くからおいでですか?」
 とても疲れている様子なのに、それでも笑みを浮かべて男性は頷きました。
「どなたとお会いするおつもりでした?」
「妻と」
 笑みが一段と深くなりました。
 私は桜の枝で作ったコップで泉の水を汲み、男性に渡しました。
「さぞかしお疲れでしょう。喉も渇いておいででしょう」
 男性は両手で受け取ると、一気に飲み干します。
「うまい。うまいなぁ」
 瞳の輝きが戻りました。
「おや、水仙がこんなに…」
 やっと人心地がついたのか、男性は辺りを見回し感嘆の声を上げました。
 滾々と湧く泉を覗き込むように、数多の金色の水仙が風に揺れています。
 柔らかな光が、薄い花弁の上でさんざめきます。
「見事なものですね。彼女に見せてやりたい。花見なんて連れて行ってやったことがないんですよ」
「お忙しかったんですね」
「好き勝手やらせてもらいました。妻のおかげです」
 水仙の金色が眩しいとでも言うように、男性は目を細めました。
「これから恩返しするつもりだったんですよ。…そんなこと言えばきっと、『あなたの“つもり”なんて、あてにできません』って叱られるだろうなぁ」
 男性は泉を覗き込みました。
 風が少しだけ強く吹きました。水面に細波が広がります。
「天気が崩れるのかな。
…彼女、夜の風が嫌いなんです。ザワザワして不安になるんだって。今夜は静かな夜だといいんだけど…。
そうだそうだ、キッチンの窓がガタつくから直してくれと言われてたんだった。テラスの掃除もしなきゃいけなかったなぁ」
 清水が湧く音以外、何も聞こえてきません。ここはとても静かなのです。
 私は自分の仕事に戻りました。男性の取りとめない独り言と、落ち葉を片付ける乾いた音が響きます。
「待っていれば会えますか?」
「はい。いつかは必ず会えるということです」
「それで、あなたは会えたんですか?」
 私はそっと首を横に振りました。
 私には会いたい人がいないので。
「…おっ!」
 男性は泉に身を乗り出しました。愛しい人の影がよぎったのでしょう。
 一瞬のことなのです。
「…ここで待たせてもらってもいいでしょうか」
「どうぞどうぞ。ごゆっくりなさってください」
 彼は私を振り返って、嬉しそうに微笑みました。

 白い水仙が一輪、仲間入りしました。
 泉を覗き込むように咲いています。
 幸い風は止み、でも、銀の絹糸のような雨が降り出しました。
 あたたかな雨が木立の梢を濡らし、葉や花をつややかに湿らせ、乾いた地に沁み込んでいきます。
 やがてこの雨は地の奥深くを巡って、何処かの泉に湧き出るのでしょう。
 今はとてもとても静かです。



穀雨=4月20日〜5月4日頃
初候・葭始生(あしはじめてしょうず)次候・霜止出苗(しもやんでなえいずる)末候・牡丹華(ぼたんはなさく)


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桜が満開になるちょっと前に、とても大切な方が突然、居なくなってしまいました。
つっかえ棒を一本、取り上げられてしまった気持ちです。
残されたご家族やご友人の皆さまのお気持ちを想像するだけで、息が苦しくなります。
人生や大切な人たちを、とてもとても愛された方でした。
あまりに急なことでしたから、きっとご本人が一番、びっくりされているんじゃないかな。
叶うことなら、もう一度お会いしてお喋りしたい。
会いたいなぁ。


次回は5月5日「立夏」に更新します。
 
 


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by bowww | 2016-04-20 10:26 | 作り話


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