清明その2

【前回からの続きです】


 雅樹さんを送り出した後で、テキパキと家事を片付けてから一息入れるのが、葉子さんの日課です。
 コーヒーの香りに包まれながら、頬杖をついた葉子さんは考えました。
 浮気かも知れない。
 あんなに上機嫌な夫を見たのは久しぶりです。僅かとはいえ、帰宅時間が遅くなったことも気になります。
 そして何より、あの花の香り。
 上等な香水かも知れないと、念入りに嗅ぎ分けようとした途端に、するりと溶け去ってしまうのです。
「…買い物のついでに…」
 ついでのフリをして、市役所に回ってみようと思いつきました。
 手元のコーヒーは、すっかり冷めていました。

 市役所の庁舎で葉子さんは、「緑地・公園課」の窓口は四階にあることを案内板で確認しました。
 エレベーターに乗ろうとして、足が止まりました。
 もし雅樹さんが窓口近くにいれば、葉子さんにすぐ気がつくでしょう。見つかったら、何と言い訳すればいいのか。
 立ち止まった葉子さんを見て、胸に「ご案内係」と札をつけた女性職員が近寄ってきました。
「どんなご用件でしょうか?転入届などでしたら、住民課にご案内しますが」
「…いえ、違うんです、あの…そのね。……お手洗いはどちらでしょう?」
 案内係はにっこり笑うと、「こちらになります」と近くのトイレまで付き添ってくれました。
 最近の市役所は本当に親切になったものだと感心しつつ、葉子さんはトイレの鏡の中の自分を見て、ほっとため息をつきました。
「…馬鹿らしい」
 葉子さんはジャブジャブと手を洗って、このまま家に帰るつもりでトイレを出ました。
 玄関の方を見ると、雅樹さんが居ました。若い男性職員と話しながらこちらに歩いて来ます。
 葉子さんは慌てて柱の陰に隠れました。
 二人は葉子さんに気づかないまま近づいて来ます。
「…課長のおかげです、助かりました」
「いやいや、こちらこそ助かったよ、ありがとう」
「今度、一杯ご馳走させてくださいよ」
「俺、飲めないからね。うまい昼飯の方がいいなぁ」
 二人は笑いながら、葉子さんの前を通り過ぎました。
 葉子さんは二人の背中を見送ってから、市役所を後にしました。
 雅樹さんはやっぱり、ちゃんと働いています。仕事のふりをして何処かの女性と会っているわけではないようです。
「ほんと、馬鹿みたい」
 葉子さんは自分に腹が立って仕方がありません。
「…あの人、ちゃんと若い人に冗談も言えるのね」
 雅樹さんは家で見るよりも若々しかったと、ふと思いました。

 もう疑うのは止めようと思った葉子さんですが、一人で夕飯の用意をしていると、またソワソワし始めました。
 今夜もあの香りがまとわりついてくるのだろうか。
 そう思うだけで落ち着かなくなりました。
 時計を見ると、五時過ぎです。
「…そうだ、卵。タイムセールだったわ」
 財布と買い物袋をつかみ、適当なコートを羽織ると、葉子さんはスーパーに向かいました。
 簡単な買い物を済ませて、雅樹さんが乗り降りするバス停留所に行ってみました。
 ちょうどバスが到着して、数人が降りてきました。
 見慣れた雅樹さんの姿を見つけると、葉子さんはそっと後をつけました。
 大股で歩く雅樹さんの背中を見ながら、何処で声を掛けようかと葉子さんが迷っているうちに、不意に雅樹さんの姿が脇に逸れました。
 辺りは黄昏時、街灯が灯り始めた頃です。
 葉子さんはびっくりして、足を速めました。

 公園と呼ぶにはあまりに狭い、道路と水路と住宅に挟まれて取り残された三角形の空き地に、雅樹さんは居ました。
 空き地には、一本の大きな枝垂れ桜がありました。
 八分咲きほどの枝を思うままに広げ、小さな空き地に花の天蓋を作っています。
 宵闇が濃くなる中、そこだけはぼんやり発光しているかのように明るいのです。
 雅樹さんは桜の根元に置かれたベンチに腰掛け、花天井を嬉しそうに見上げていました。
 無数の花枝がカーテンのように雅樹さんを包み込み、風もないのにゆらんゆらんと揺れています。
 一本の枝が、しなやかに雅樹さんの背中を撫でました。
「…あなた!」
 葉子さんは思わず叫びました。
 雅樹さんは飛び跳ねるように立ち上がりました。
「…びっくりした!どうしたんだ、こんな所で?」
「…卵。タイムセールだったから…」
 葉子さんは上の空で、買い物袋をかざして見せました。
 雅樹さんは空き地から出て来て、誇らしげに桜を指差しました。
「見事だろ?樹齢百年にはなるらしいんだ。
 去年、邪魔だという苦情が市役所に寄せられてさ、調べに来てみたらこんな立派な桜だろ?
 切ってしまうのはあまりに惜しいと思って、地域の皆さんに頼み込んで残したんだ。
 少しでも見栄えのいい場所にしようと、仕事のついでに雑草を刈ったり、花壇を作ったりしているうちに愛着湧いちゃってさ」
 よく見れば、小さな花壇にムスカリやヒヤシンス、スイセンも咲いているようです。
 枝垂れ桜は身じろぎもしません。
「樹木医さんに診てもらったせいか、今年は一段と花の付きがいいんだよ」
 樹木医のせいではないと思う。
「…本当に見事。
 …そうだ、今度の週末、ここでお花見でもしましょうか?私、久しぶりにお花見弁当を作るわよ。子供たちにも声掛けてみるわ」
 葉子さんは雅樹さんを見上げながら、その後ろに控える桜に向かって言いました。
「それはいいな。少しでも賑やかにすれば、ご近所の人たちも足を運びやすくなるもんな」
 無邪気な雅樹さんの答えを聞くと、桜はざわりと枝を揺らしました。
「週末辺りが満開だろうな」
「お天気だといいわね。…さ、帰りましょうよ」
 桜に背中を向けると、葉子さんは雅樹さんのコートの袖をちょんと引っ張りました。
 そして胸の中で、(雨が降るといいな)と呟きました。
 雨で冷えれば、香りも少しは落ち着くでしょう。




清明=4月5日〜4月19日頃
初候・玄鳥至(つばめきたる)次候・鴻雁北(こうがんかえる)末候・虹始見(にじはじめてあらわる)



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「清明」という文字や響きには、もう初夏の気配が紛れ込んでいるような気がします。
花の季節から新緑の季節へ移り変わる頃。
良い季節ですね。

今年の桜はせっかちです。
暖かかったせいか、あっという間に咲いてしまいました。
大慌てで近間の桜名所(自分だけの名所も含む)を巡っています。
でも、パトロールの結果、街の桜以外はまだまだ三分咲きから四分咲き。木曜日の雨風にも耐えられそうです。
週末は魂が抜け出る程、桜に耽溺しようと企んでいます。
写真は、枝垂れではありませんが、何年も前に撮った桜。
朝も夕も夜も、桜が好きです。
今年も良い桜に会えますように。

田舎なので、見事な枝垂れ桜ポイントも幾つか知っています。
ただ、見事な桜は墓守り桜やお堂守り桜であることが多いのです。
流れ落ちる花の滝は、それはそれは美しいのですが、なんとなく写真を撮るのは憚られます。
ずかずかと土足で立ち入ってはいけない場所ってあるんじゃないかな、と思います。


次回は4月20日「穀雨」に更新します。

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by bowww | 2016-04-06 09:53 | 作り話 | Comments(0)


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