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処暑

 抱えているプロジェクトの進行が遅れ気味で、厭味な部長からきつくプレッシャーを掛けられた。
 それで苛々していたのかも知れない。
 午前中のチームミーティングで、青木との議論がつい度を過ぎた。
 青木香奈恵は海外支社での勤務経験もあり、仕事が出来る分、物言いに遠慮がない。ただ、意見は的確な事が多く、感情的になることもないから、僕にとっては安心して議論できる相手だ。
 いつもは互いに落とし所を見つけて、ほかのメンバーがそれを拾い上げて方向性が決まるのだが、この日は僕が「お嬢さんの意見はいつもきれいごとばかりだな」と皮肉を言って無理矢理打ち切った。
 青木はぎゅっと奥歯を噛み締めるような顔をして黙った。
 ミーティングはつまらない雰囲気で終わった。
「真田係長、」
 会議室を出たところで、青木に呼び止められた。
「さっきは生意気なことを言って申し訳ありませんでした」
 ブンッ!と音が聞こえそうなぐらい、勢い良く頭を下げる。
 そして、もう一度、ブンッ!と顔を上げた。
「でも、私はきれいごとを言ったんじゃありません。目的にもう一度立ち返るべきだと言いたかったんです。第一、私は三十三歳で『お嬢さん』なんかじゃないです」
 こちらを見上げる目が赤い。マスカラやアイラインが盛大に滲んでいる。
 小狸みたいだ。
「…悪かった。失礼なこと言ったな。
 明日、改めて皆で問題点を洗い直そう。
 …でさ、」
 僕は我慢できずに吹き出した。
「鏡見てから戻った方がいいぞ」
 青木は真っ赤になってトイレに飛び込んだ。

 十年前に妻と別れて、息子の圭介と二人でやってきた。
 前の妻は口数が少なく、いつも静かに微笑んでいるような女性だった。
 だから「好きな人ができたから別れてほしい」と突然言われて、心底びっくりしたのだ。
 まさに青天の霹靂。
 喧嘩一つしたこともなく、子供も生まれて穏やかな日々を送っていた。
 つもりだった。
 怒りや嫉妬よりも、「女は分からない」という気持ちが一番強かった。
 青木とプライベートで会うようになった。
 職場から離れた青木は、呆れるほどよく笑い、よく怒り、よく泣く。
 言いたい事を互いにぽんぽん言い合って、彼女のくるくる変わる表情を面白がっているうちに、女性に対する臆病な気持ちはいつの間にか消えていた。
「ずっと一緒にいたい」
 青木の率直さにつられて本音を言ったら、彼女は一瞬、きょとんと僕を見つめた。
 そう、この小狸顔が好きなのだ。

 圭介には青木のことをきちんと紹介するつもりだった。
「父さん、昨日、街で父さんたちを見たよ」
 月曜日の朝、慌ただしく朝食を食べていると、圭介が何気なく言った。
 青木と映画館から出てきたところを見かけたらしい。
「…ああ、映画館で職場の後輩と偶然会ってな…」
「ふぅん」
 圭介はそれ以上は何も言わず、トーストにジャムを乗せた。ガラス瓶にスプーンがカツカツと当たる。
「ジャムと牛乳、帰りに買って来るね」
「…ああ、卵もついでに頼む」
 気持ちの準備が出来ていなくて、とっさに嘘をついてしまった。
 シンクでザァザァ水を流し、皿を洗う。
 横から圭介が「出し過ぎ」と、水を細める。
「そうだ、俺、夏休みにバイトしたいんだけど。どこか住み込みで」
 いい自転車が欲しいから、がっつり稼ぎたいんだと言う。
 僕は半ば上の空で「いいんじゃないか」と答えた。

 会社へ向かう電車の中で、青木から「今度の週末、花火大会に行きませんか?浴衣姿をご披露します」というメールを受け取った。
 文末にニヤリと笑った絵文字がついている。
 昔、圭介と妻と三人で花火大会に行った。
 離婚を切り出されたのは、その日の夜、圭介が寝た後だった。
 火薬の匂いが鼻先から離れなかった。
 以来、花火大会には行っていない。圭介から「行きたい」とせがまれたこともない。
 圭介についた嘘と、火薬の匂いと、会場の人混みを思うと、気持ちがずしりと沈み込む。
 昼休みに「ごめん、ちょっと夏バテ気味だからパスしたい。浴衣は見たいけど」と返信した。
 帰り際、またメールが来る。
 「給湯室の冷蔵庫に、栄養ドリンク冷えてマス」。
 頬が緩む。
 胸の中で「ごめん」ともう一度謝った。

 圭介は結局、妹の綾に預けた。
 知らない場所で一人でアルバイトをさせるより、身内の側に置く方が安心だ。
 綾の喫茶店で、なかなか役に立っているらしい。
 僕は久しぶりの気楽な独り身暮しを楽しむつもりだったが、猛暑にやられたのか本当にバテ気味で、週末はただゴロゴロしてばかりだった。
 圭介が居ない間に青木と会うのは、なんとなくフェアじゃない気もしていた。
 青木も無理には誘ってこない。花火大会には友人たちと出掛けると言っていた。
 テレビを見ながら缶ビールを飲んでいると、一気に老け込んだ気がして滅入る。
 ビールを半分残して、風呂に入った。
 久しぶりに湯船に浸かっていると、遠くで「ドーン」と低い音が響いた。
 花火大会が始まったらしい。
 風呂上がりにテラスに出る。
 ビルとビルの合間から、少しだけ花火が見えるのだ。
 光の筋が音もなく夜空を駆け上り、パッと炎の花が咲く。
 光の欠片がキラキラと舞い散る頃、ドーンと音が遅れて鳴り響く。
 青木は今頃、あの下で花火を見上げているのだろう。
 大はしゃぎしている顔が目に浮かぶ。
 携帯電話が鳴った。
 青木からだった。
「すっごく綺麗!ど迫力!」
 案の定、大はしゃぎだ。周りの喧噪や花火の音にも負けない、明るい声が飛び込んで来る。
「ああ、うちからもちょっとだけ見えるんだ。今、テラスから見てた」
 二人同時に、「あ!」と叫ぶ。
 ひと際大きな花火が上がった。ビルの明かりが霞み、藍色の夜空に雲がくっきり浮かぶ。
 音が追いかけてきた。
「来年は、一緒に行こうな」
「え?ごめんなさい、聞こえない、なに?」
 僕は笑って電話を切って、すぐにメールを送る。
「一緒に行こうな」
「一緒に見たかった!」
 送信と同時に着信した。
 僕は一人、声を出して笑った。
 冷蔵庫から冷えたビールを取り出し、あらためて飲み干した。
 むき出しの腕に、夜風が少しだけ涼しい。

 寝ようと思ったら、今度は圭介から電話が来た。
「今日さ、母さんと会ったよ」
「…どこで?」
「綾ちゃんの店で。来てくれたんだ、母さん」
 こんな時は、なんと言えばいいんだろうか。
「元気だったよ。旦那さんと二人暮しなんだってさ。二人で絵画教室の先生をやってるんだって」
 圭介はいつも通りの声で続ける。
「特に父さんへの伝言はなかったけどね。普通に幸せそうだった」
「…そうか、それならいいんだ」
 心から、それなら良かった、と思った。
「今夜は花火大会だったでしょ?行ったの?」
 圭介が笑いながら言う。
「おっさんが一人で行くワケないだろ」
「二人で行けばいいじゃん」
「……」
「父さん、意地張ってたり遠慮してたりすると逃げられちゃうよ。父さんの方がどう見ても先は短いんだから急がなきゃ。父さんを好きになってくれるなんて、貴重な人材だよ」
「…ケイが帰ってきたら、ちゃんと紹介する」
 やっとのことで電話を切って、ベッドに転がる。
 不意打ちを食らわせるのが得意なのは、母親譲りなんじゃないだろうか。
 それにしても、今夜の圭介はよく喋ったな。
 青木に、「来週末、うちに来ないか?若いイケメンを紹介するよ」とメールを送って眠りに落ちた。
 きっと青木は小狸顔をしている。


処暑=8月23日〜9月7日頃
初候・綿柎開(わたのはなしべひらく)次候・天地始粛(てんちはじめてさむし)末候・禾乃登(こくものすなわちみのる)
 


処暑_b0314743_09434181.jpg
 

 
今朝、母に「今日は風がひやんひやんするね」と言うと、「うん、ショショだからね、ショショ」と得意げに返ってきました。
本当に暦通りです。
朝夕の風がすっかり涼しくなりました。
ついこの前まで青々としていた田んぼも、淡く金色を帯び始めました。
稲穂がぺこりと頭を下げています。
隣の田んぼのおじいさんはとっても働き者。
朝早くから田んぼの世話をしています。
稲穂が出ると賑やかになるのが雀たち。ご馳走なんでしょうね。
そして、それを追い払うために、一斗缶をガンガン打ち鳴らすおじいさん…。
雀よりも、ぐうたらな私の方がびっくりして目が覚めます。
心臓バクバク。。
でも、美味しい美味しい新米のために我慢します。


次回は9月8日「白露」に更新します。


by bowww | 2015-08-23 09:53 | 作り話


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