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第七十二候 鷄始乳

 弟が泣きべそをかいて僕のところにやってきた。
 また何か失くしたらしい。
 学校の制服のリボンか、合唱団で使う新しい楽譜か、それとも散々ねだって買ってもらった三十六色の色鉛筆か。
「泣く前に、何を失くしたのか言ってみろよ」
 僕の問いにも首を横に振るばかり、とうとう本格的に泣き出した。
 ところが。
 涙はぽろぽろ零れるのに、声が聞こえない。
 …まいった。
 どうやら、声を失くしたらしい。

 こいつの面倒をみるのは、昔から僕の役目になっている。兄さんは今日も、さっさと図書館に行ってしまった。
 弟も弟だ。
 三人兄弟の末っ子で、普段は兄さんの後ばかりくっついて回るくせに、トラブルがあった時だけ僕の所へやって来る。
 今回もひとしきり泣いたら、けろりとした顔でおやつのクッキーを食べている。僕に伝えて、自分の仕事は終わったと言わんばかりだ。
 まったく、損な役だ。

 それにしても、早く探し出さないと来週のコンサートに間に合わない。
 僕らの街の合唱団は毎年、「春待ちコンサート」と銘打ってコンサートを開く。
 僕よりも小さな子供たちで構成されている合唱団は、夏休みに入る頃から練習を始める。
 街の伝統行事だから、指揮者や団員たちも気合いを入れて歌声に磨きをかける。毎年、聴きに行くのを楽しみにしている人たちも多い。
 弟は今年、ソロで歌うことになっている。
 ドジで甘ったれで泣き虫だけれど、歌声だけは僕でさえ聞き惚れてしまう。
 その大切な声を何処かで落としてくるのだから、本当に間抜けな奴だ。
 とにかく早く探しに行かなくちゃ。
 雪が積もったら余計に厄介だ。

 幸い、翌朝はキンと冷えた冬晴れ。
 布団に潜り込む弟を叩き起こし、着膨れた僕らは日の出とともに森へと出掛けた。
 水筒に熱い紅茶を入れて、あり合わせのハムとチーズでサンドイッチを作って、と、簡単な朝食を手早く用意したのは弟。
「ピクニックじゃないだろ」
「でも、お腹空いちゃうじゃん」
 と表情で答えると、彼は小走りで道案内を始めた。

 森は僕たちの街の西側に、緩く起伏を繰り返して広がっている。
 僕の遊び場はもっぱら学校や街の中心部だから、森の様子はちっとも分からない。
 隣の村へ続く大きな道をひとつずれると、すぐに大きな沼に突き当たる。
 そこで行き止まりのように見えるけれど、葦を掻き分けると道らしきものが対岸までぐるりと続いているのが分かる。冬になって葦は立ち枯れているから、身軽に進む弟を、案外簡単に追いかけることができた。
 それにしても霧が深い。
 一面、乳白色のフィルターがかかったようで、樹々の影が柔らかく滲む。息を吸う度に肺に入り込む細かな細かな水滴に、このまま溺れてしまいそうだ。
 前を行く弟の背中さえ、ゆったり波打つ霧に紛れていく。
 ちょっと心配になって声を掛けようとした時、いきなり弟が立ち止まった。
 声が聞こえる。
 弟の声だ。
 僕たちは顔を見合わせた。
 どうやら歌を歌っているらしい…のだけれど、あまりにたどたどしくて、聴き取るのに根気がいる。でも、これは多分、弟がコンサートで歌う曲の旋律だ。
 僕らは息を殺して辺りを見回した。
 そこは古い樫の木がある少し開けた場所で、腰掛けるにはちょうど良さそうな石が二つ、転がっている。沼からは離れているから、目の前を遮る葦もないし、湿気っぽくもない。
 弟の秘密のレッスン場だな、と見当がついた。此処なら邪魔されることなく歌の練習ができる。
 で、肝心の声の「拾い主」は何処にいるのかというと…。
 弟が樫の木の裏側で手招きをしている。
 そっと覗き込むと(その頃には歌は止んでいた)、小さな茶色の蛇がちょこんと頭を下げた。
 そして消え入りそうな声で「悪気はなかったんだ、ごめんなさい」と謝った。

 蛇の話はこうだ。
 いつも樫の木の洞(うろ)で弟の歌を聴きながら、一度でいいからあんな風に歌ってみたいと思っていたそうだ。
 梢にやって来る鳥たちでさえ歌うのに、どうして僕は歌えないんだろう。
 本当ならとっくに冬眠して、暖かい春まで眠っている筈だったのに、弟が此処で毎日歌っているからすっかり寝そびれてしまったのだと言う。
 そこへ、僕のドジな弟が声を落としてくれた。
「すぐに返そうと思ったんだけど、その前にちょっとだけ歌ってみたくて…」
 でも、歌い方が分からないんだ…と悲しそうに呟いた。
 僕と弟は、蛇のことが少し気の毒になってしまった。
 それに、声が凍らずに済んだのは、蛇のおかげでもあるわけだし…。
「じゃあお礼に、短い歌を教えてあげる。簡単だからすぐに覚えられるよ」と、声を返してもらった弟が言った。
 そして短い短いフレーズを歌ってみせた。
    小鳥なれば
    飛びて行かん
    君が御許(みもと)
 ようやく日の光が木立の中にも射し込んできた。東の空が朱鷺色に染まり、森全体がほっと息を吐いて目覚めていく。
 弟の声は細かな金の粉のように、きらきら辺りに舞い散る。日の光を乱反射する霧と溶け合ってしまいそうだ。
 小さな蛇は、じっと聴き入っている。そして、二度三度繰り返す弟の旋律に会わせて、静かに首でリズムを取った。
「兄さん、蛇に声を貸してあげてよ」
「えっ!」
「だってこれじゃあ教えにくいもの、ね?」
「……。」
 弟に続いて、僕の声で真剣に歌う蛇を、僕は何となく釈然としない気持ちで眺めた。
 小さな蛇がとても嬉しそうだから、文句を言えないけれど…。
 ほんと、損な役回り。
 手持ち無沙汰だから弟の持ってきた紅茶を飲もうとしたら、熱くて舌を火傷した。
 ああ、もう!!
 弟の頼み事なんて、二度と聞いてやるもんか!!


「兄さん、お願い!」
 弟がステージの袖でこっそり僕に渡したのは、あの茶色の蛇。
「どうしてもコンサートを聞いてみたいって言うからさ」
 きれいに支度を整えた弟が手を合わせる。
 出番まで五分もないから否応なし。
 僕は慌てて蛇を胸ポケットに押し込んだ。
 蛇はびょこんと頭を下げる。
 やれやれ…。

 弟のソロが始まる。
 伴奏のオルガンが止まり、ソプラノのパートが消え、続いてアルト、テナー、バスが静かになると、小柄な弟にスポットライトが当たっているように見えた。
 弟の透明な声が、広い講堂の隅々に流れていく。
 細いのに、思わず耳を澄ませてしまう声。高音部が僅かに顫えて、天上から射し込む光を思わせる。
 蛇がポケットから首を出して、じっと目を閉じた。
 やがて高みに昇りつめた弟の声に、すべてのパートが寄り合って、色鮮やかなタペストリーのような歌声が一度に広がった。
 僕も目を閉じて、音の洪水に身を任せた。

 コンサートは大きな大きな拍手で無事に終わった。
 さて、この小さな蛇をどうしたものか。
 弟たちの歌を存分に聴いて満足したのか、僕のポケットの居心地が好かったのか、蛇はウトウトと居眠りをしている。
 本来なら冬眠の真っ最中なのだから無理もない。
 森に返してやるにも、この寒さの中では凍えてしまうだろう。
 仕方がない、春が来るまで我が家で面倒を見るか。
 僕らの母さんは蛇が大の苦手だから、絶対に見つからないようにしなくちゃ。
 本当に、弟に関わると骨が折れることばかりだ。
「お前の箪笥の隅っこに入れておいてやったらどうだ?」
 兄さんがポケットを覗き込む。事情を知っているなら、もっと早くに協力してほしい。
「母さんがうっかり開けちゃったら大騒ぎになるじゃないか」
「オモチャだと言い張ればいい」
 兄さんなんか、当てにするものか。かといって、弟にだって任せられない。
 結局、損な役回りなのだ。
 僕は溜め息をついて、蛇の頭をチョンと突いた。

 春、冬眠から覚めた蛇が脱皮して、金色に変身したのはまた別の話。



〜鷄始乳(にわとり はじめて とやにつく)〜

第七十二候 鷄始乳_b0314743_02290226.jpg


春の気配を感じた鷄が卵を産み始める季節。
まだまだ寒さが厳しくて雪も降ったりするけれど、日毎に強さを増す陽射しに、微かに春の兆しを感じ取る頃。
「春隣」という季語は、ちょうど今時分のことを指すのでしょうね。
海の旬は、真鯛などなど。
山の旬は、セロリ、ゴボウなどなど。
我が家ではセロリの葉の部分を細かく刻んで、甘辛の佃煮のようにして食べます。独特の風味と歯ごたえがしっかり残るので、大人味かも知れません。


さて、七十二候、一巡りしました。2月4日は立春、第一候「東風解凍」です。
一年経つのが本当に早いです。
私の作り話も、とりあえず、これで一区切り。
始めたときは、とにかく一年間、ちゃんと書き続けようと決めていました。
5日ごとの「締め切り」に追われ、書けずに明け方まで悶々とする夜も。。
でも、やっぱり、書くのは楽しいです。
ここで書き始めてから、自分の心にうまく風が通るようになった気がします。
時々頂くコメント、とても嬉しかったです。
誰かに読んで頂いて、ほんの一時、楽しい気分になってもらえたら…。
訪れて下さった皆さま、本当にありがとうございました。

今後もぽつんぽつんと気まぐれに更新できたら、と思っています。
もうすぐ春ですね。



by bowww | 2015-01-30 09:54 | 七十二候


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