【前回からの続きです】
その展示スペースに入ると、今までの華やぎがいきなり影を潜めた。 キャンバスに叩きつけられた油絵具が、テラテラと光る。 これは、抽象画だろうか。 一面の群青が罅割れて、そこから赤や黄、青といった原色が滲み出ている。 …ようにしか、私には見えない。 首を傾げながら三歩ほど後退し、何か浮かび上がってくるのではないかとその絵を見つめる。 「どうだ、こっちの方が面白いだろう」 さきほどの老人が再び現れた。 「…分かりません。私、素養がないので抽象画は分かりません。ちっとも面白くありません」 私は半ば自棄になってそう答えた。 老人は愉快そうに笑った。 「それでは、こっちの絵は?」 ステッキの先で、隣の大きな絵を指す。 こちらは真っ黒。パレットナイフで引っ掻いたのか、一面に傷跡が残り、その上にやはり原色の絵の具が飛び散っている。 「この絵を描いた人は、何が気に食わなかったんでしょうね」 老人は黙った。 私はその隙に、足早にほかの絵を見て回った。 小さなキャンバスが多い。だが、どの絵にもドロドロとしたエネルギーが滾っている。 見ている者を引きずり込んで、不安や苛立ちを無理矢理共有させる力強さ。 「…こいつは将来を嘱望された画家だった。地方の貧しい農家の倅だったのが、東京から流れてきた画家の手ほどきを受けて、みるみると頭角を現した。いくつかの展覧会で入賞したことで舞い上がって、故郷を捨てて上京した」 見渡すと、絵を習ったばかりの頃のデッサンも数枚、展示されていた。 訳の分からない抽象画ではなく、端正な線で静物や人物を描いている。 「間もなく戦争が始まり、売れ出したばかりのこいつは国策に乗って、戦争画を描きまくった。なかなか評判が良くて、従軍画家として戦地に送り込まれそうになったんだが、臆病風を吹かせて逃げおった。 戦意高揚のために描いた画家たちは戦後、世間から断罪されて惨めな目に遭ったことを思えば、逃げて正解だったのかも知れないがな…」 老人の昔語りは訥々と続く。 この画家は戦犯扱いされることは免れた。 しかし、戦争中に受けた「臆病者」のレッテルのために画壇からは見捨てられ、世間からも忘れ去られたという。 「よくある話だ。そうやって消えていった画家は砂粒よりも多いわ」 老人は乾いた笑い声を上げた。 「それでも、描くことは止められなかったんですね」 私は一枚の絵の前に立っていた。 制作年数を見ると、「昭和四十二(1967)年」とある。 題名はない。木炭で走り描きされたデッサンだ。 母娘だろう、手をつないで、母親は空を見上げ、幼い娘はこちらに駆け出してこようと身構えている。 シンプルな線だけで一瞬の動きや、母娘の表情まで描きとめていた。 「ご家族がモデルかしら」 「…貧乏画家の常で、こいつも家族を散々苦しめた。妻はそれでも売れない画家を支え続けたんだが、とうとう辛抱しきれずに一人娘を連れて家を出た」 壁に貼られた画家の年表を見ると、母娘を描いた翌年に亡くなっている。 出て行った妻と娘を思い出して描いたのか、それとも大きくなった娘が、孫を連れて訪ねてきたのか。 「凡庸な絵だ」 老人は吐き捨てた。 「私は、それでもこの絵が好きです。誰かを想って描いているから」 不遇の画家が晩年、こんな絵を描けていたのなら、見ているこちらも救われたような気持ちになる。 「ふん、これまた凡庸な感想だな」 そう言って老人は背を向けた。 黒いコートがユサッと揺れた。 私も絵の前を離れ、出口の方へ向かった。 「…娘と孫さ」 「え?」 聞き返そうと振り向くと、老人の姿は消えていた。 画廊のオーナーを名乗る初老の男性に声を掛けられた。 「熱心にご覧になっているものですから。こちらの作品がお気に召したのなら、詳しくご案内いたしましょうか」 私は「もう帰りますので」と辞退した。 「ご本人からレクチャー受けましたので」とは、もちろん言えなかった。 〜雉始鳴(きじ はじめて なく)〜 私の通った大学は、山を切り開いた谷間にあるような小さなキャンパスでした。 街全体が大きな下宿のような、学生のためにあるような街でした。 住んでいたアパートも山の斜面に建っていて、良く言えば自然豊か、平たく言えば田舎の真っ只中でした。 ゴミを出しに行くと、雉の夫婦とよく出くわしたものです。 時々、「ケーンケーン」という鳴き声を聞きましたが、あれは雉だったのかどうかは分かりません。 海の旬は、タラ(お鍋の定番ですが、火を通しすぎるとボソボソになりますよね)などなど。 山の旬は、水菜などなど。 一昨年だったかな、くだらないことで気持ちがささくれて、そこがグズグズと膿んだような状態が暫く続きました。 そんな時、東京の山種美術館で「百花繚乱」と題した展示会に行きました。 本当に百花繚乱、花々が咲き乱れる展示会でうっとりしながら鑑賞していましたが、速水御舟の「名樹散椿」の前で動けなくなりました。 圧倒的な美しさでした。 金地を背景に、うねる老椿の幹、執拗なまでに描き込まれた幾多の椿、深緑のビロードのような苔に散りかかる桃色の花弁。 好きとか嫌いとかすっ飛ばして、美しいものの果てしない力に打ちのめされたのだと思います。 幸運なことに、私がこの絵が展示されている小さな部屋に入ったとき、ほかに誰もいなかったので暫く独占できたことも良かったのかも知れません。 贅沢な時間を貰いました。 この絵を見てから、少しずつ少しずつササクレが治まっていきました。 パワーを分けてもらったのかなぁ。 以来、息切れし始めると、展示会へ出掛けるようにしています。 次回は1月20日「款冬華」に更新します。 残り3回となりました。 なんとかゴールにたどり着きたい…。
by bowww
| 2015-01-15 03:31
| 七十二候
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