第五十候 菊花開

 夏の観光シーズンが過ぎて、紅葉の季節にはまだ早い。
 そんな中途半端な季節なら静かな京都が楽しめるだろうと、平日に連休を取って出掛けた。
 修学旅行や友人との旅行では何度か訪れたことがあったが、一人旅は初めてだ。
 来てみれば名所の神社仏閣は、それでも観光客で賑わっている。
 定番の清水寺や金閣寺、南禅寺などは避けて、唯一の目的だった太秦の広隆寺で弥勒菩薩像を拝観した後は、気ままに京都の街を歩き回った。
 町家をうまく改装した雑貨店を覗き、モダンな雰囲気の古道具屋で小さなグラスを二つ買い、昔ながらの喫茶店で一息つく。
 さすがに歩き疲れて河原町にあるホテルに戻り、シャワーを浴びて三十分ほど眠った。
 空腹で目が覚めた。夕食は外で食べることにしていたから、ガイドブックを開いてめぼしい店を探す。
 すると、老舗のバーがホテルの近くにあることに気づいて、俄然、元気が出る。
 一人で食事を取るのはファストフードの店でも苦手なくせに、バーは平気なのだ。
 食べるとき、一人ではどうにも手持ち無沙汰な気持ちになる。
 バーでは客あしらいが上手いバーテンダーが、程よく相手をしてくれるから気楽なのだろう。
 食前酒を飲んで、バーテンダーにお薦めの飲食店を紹介してもらえばいい。
 髪や服を整え、化粧を簡単に直して、暮れ始めた街に出た。

 バーの前でため息をつく。重厚な木の扉には「臨時休業」の張り紙。
 定休日ではなく、「臨時」というタイミングにぶつかってしまう自分の間の悪さが恨めしい。
 気持ちはすっかりアルコールに傾いている。どうしたものかと迷ったが、確かもう一軒、良さそうなバーがあったと思い出す。
 ガイドブックはホテルに置いてきたし、店の名前も忘れたからスマホで検索することもできない。
 確か高瀬川沿い、木屋町通を南に行って路地を少し入った所だった。
 とりあえず行ってみようと歩き出す頃には街はすっかり灯ともし頃で、仕事帰りに一杯飲もうというサラリーマンや、食事会やデートに向かう華やいだOLたちで賑わっていた。
 川沿いの歩道の石畳が、街灯の明かりで照り光る。川の水面もチロチロと光を返す。 
 なんとなく艶めいて見える街の表情を楽しみながら、目的のバーを探した。
 通りから右に折れて、たぶん数十メートル。
 見当をつけた場所に、果たして小さなバーの看板が出ていた。銀色の瀟洒なプレートに、素っ気ないぐらいの簡素さで店名が書かれている。小さな明かりが灯っているから、営業中ではあるのだろう。
 古いけれど小ぎれいな雑居ビルの半地下にあるらしい。
 敷居が高そうだが、「旅の恥は…」と呟いて扉を押した。あまりに場違いなら、物を知らない観光客の顔をしてそのまま退散すればいい。

 入ってみれば、何の変哲もないバーだった。
 よく磨かれた一枚板のカウンターにスツールが八つ。酒の瓶がずらりと並ぶ棚。奥には小さなテーブルが二つある。ジャズが低く流れ、カウンターの上だけが明るい。
 カウンターの真ん中に、女性客が一人、座っていた。
 白髪のマスターが穏やかに「いらっしゃいませ」と声を掛ける。
 ほっとしながら入り口近くの席に座る。
 手渡されたおしぼりは温かく、仄かに檜の香りがした。
 空きっ腹だからと、モスコミュールを軽めに作ってくれるように頼んだ。
 よく冷えた銅製のマグに唇をつけて傾けると、生姜の辛みも鮮やかなモスコミュールが喉に流れ込んで来た。思わず「美味しい」と声が漏れる。
 マスターが笑顔になる。
 と、女性客の肩も揺れた。
 一杯目を飲み終える頃、マスターが「観光でいらしたのですか?」と声を掛けてきた。
 京都は初めてか、どこの名所に行ったか、どこから来たのか、などと煩わしくない程度に質問が続く。こちらも旅先の気楽さから、機嫌良く答えた。
 気のせいか、女性客も聞き耳を立てているように感じる。
 観光客はあまり入り込まないようなバーだったろうか、と思う。地元の常連ばかりが来る店かも知れない。
 居心地は悪くないが、もう一杯飲んだら店を出ようと思い始めたとき、女性客がこちらを見た。
「もし良かったら、一緒にいかがです?」
 女性はカウンターの上にある透明な瓶を指し示した。
「京都の面白いお店なんかもお教えできると思うけど」
 とても綺麗な人だと思った。
 陶器のような肌に、墨を流したような切れ長の瞳。少し薄い唇は透明感のある赤。耳の下で切り揃えられた黒髪が、首を傾ける度に濡れたように光る。
 つり込まれるように頷いていた。
 彼女ははしゃいだ声を上げて、隣の席に移った。
「退屈していたの。お話し相手が欲しくて」
 マスターがショットグラスに透明な酒を注いだ。
 ストレートのウオッカやジンだとしたら、とてもお付き合いできない。
 こちらの不安を察したのか、彼女はくつくつと笑って言った。
「これは日本酒。雰囲気を出すためにグラスに注いでもらったの」
 瓶を振って見せる。
 瓶の底で、薄紫色の欠片が揺らめいた。
「…それは?」
「菊の花」
 彼女は細い指でグラスを持ち上げると、すい、と飲み干した。濃紺のニットから覗く喉が、透けるように白い。
 恐る恐るグラスに口をつける。
 確かに日本酒だ。
 ほの甘い酒の香りに、ひんやりとした花の香りが一筋。口に含むと、その香りが膨らんで鼻に抜けていく。舌に微かな苦みを残して。
「…美味しい」
「菊のお酒は不老長寿のお薬だから。もっと召し上がる?」
 彼女はまたはしゃいだ声を出して、こちらを覗き込んだ。
 でも、その綺麗な瞳はどこまでも黒く深く、底が見えない。
 酔っているのだろうか。
「いいわね、柔らかそうな唇。きれいな肌。若いっていいわね」
 冷たい指先が頬に触れる。
「でもね、あと十年。…ううん、五年もすれば衰え始めるわ。ここに皺が出来て…」
 目尻に触れる。
「ここが落ち窪んで…」
 瞼に。
「ここは色褪せて…」
 唇に。
「どう?年を取らない方法、知りたくない?」
 囁く声が心地好くて、墨色の瞳から目が逸らせない。
 指先が鎖骨を撫でる。
 ぞくり。
 慌てて身を退いた。
「やっぱり、これで失礼します」
 女性は「あら残念」と、にっこり微笑んだ。
 バーテンダーは何事もなかったように会計を済ませると、
「本当に残念。よいお客様になって頂けるかと思いましたが…」と呟いた。

 バーからどうやってホテルに戻ったか覚えていない。
 バスタブにお湯を張り、震えながら肩まで浸かった。
 バーの名前が、どうしても思い出せない。
 ただ、体を何度洗っても、あの菊の香りは朝まで消えてくれなかった。



~菊花開(きくの はな ひらく)~


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旧暦の9月9日の頃です(でも、今年の旧暦9月9日は、10月2日でした)。重陽の節句です。
菊の花を浸したお酒を酌み交わし、不老長寿を願った日だそうです。
3月3日の桃の節句、5月5日の端午の節句などに比べて、どうにも地味ですね。
どうして廃れてしまったのでしょうか。
やっぱり菊の花が地味なイメージだからかな。
「アンチエイジングの日」なんて感じで売り出せばよろしいのではないかしらん。
今回の作り話、半分は実話です。
京都に一人旅に行って、バーに行って。
美人さんには会いませんでしたが、バーテンダーさんと楽しくお喋りしました。
でも、数年後に再びそのバーを訪れようとしたのですが、どうしても見つけられなかったのです。

海の旬は、ハタハタ(食べたことないです)などなど。
山の旬は、小豆、ナメコなどなど。
今年の山は、キノコ凶作だそうです。キノコ採り名人の同僚が嘆いていました。
それでも、私の大好物のチャナメツムタケを分けてくれました。
牡蠣醤油とお酒を垂らして、ホイル蒸し焼き。山の香りと一緒に頂きました。
ありがたや。

また台風が近づいています。今年は天に「どうか鎮まって…」と祈る日が特に多い気がします。
どうか静かにお通り下さい…と、台風の映像を見ながら思っています。


次回は10月18日「蟋蟀在戸」に更新します。


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by bowww | 2014-10-13 10:14 | 七十二候 | Comments(2)
Commented by 高橋 at 2014-10-13 13:56 x
前職で転勤を繰り返していた頃、呑み屋を開拓するのが細やかな楽しみでした。
常連になるのも楽しいのですが、なんと言っても初めてその店の扉を開けた瞬間、あの冒険感がたまりません(笑)
退職し地元へ戻り、地元の歓楽街へ赴くと、なんかこうピン!とくるバーを発見!
(こりゃ、良さそうだ。匂うな♪)
いざ入店…そしてビックリ!!
敷居が高い!高すぎる!!(゜ロ゜ノ)ノ
カジュアルな格好で入る店じゃない(´д`|||)
ドリンクメニューが無い!
三十代で入る店じゃない!
座ってるオッサンはダンディー過ぎて、何か電話の内容も重役クラス的!!
ウイスキーはソコソコ飲んできたけれど、知らないウイスキーてんこ盛り!
必死で記憶の中からカクテル名を引っ張りだし、三杯ほど呑んで退店…。
出口ではバーテンさんが俺のコートを持ち構え着せてくれ、ドアを開け外に出る瞬間、一礼しながら「行ってらっしゃいませ…」

男子50歳未満の【未成年】は入ってはいけない…。
そんなバーでした(笑)
Commented by bowww at 2014-10-13 17:33
高橋さま。

そう、初めての扉を開ける瞬間はドッキドキですよね。
私の勤務先がある街は、地方都市なのにバーが充実している街なのです。
かなり本格的なオーセンティックバーから、頑固者のマスターが、気に食わない客は追い返しちゃう(ぐらいの勢いの)バーまで。
頑固者マスターに気に入られて、朝まで飲み明かしたりしたものです…。若かった(笑)。

メニューがないと気が気ではないですよね。
そういう高級路線のお店であれば、いっそのこと「未成年入店お断り」と掲げてほしい(笑)。
でも、もう少し年を取ってから落ち着いて過ごせるようになると素敵ですね。
ちなみに私、お酒はなんでも大好きなのですが、物覚えが悪くて知識がちっとも蓄積されません。
「次はモルトウイスキーを、何か…」
「どれにしましょう?」
「美味しいのをください♪」
…で、大概、乗り切ります。


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