第四十七候 蟄虫培戸

 目が覚めて、やけに静かな日だと思う。
 雪の朝を思い出し、もちろんこんな時期に降るわけがないと思い返し、ではこの静けさは何だろうと考える。
 耳の奥を柔らかいもので圧迫されているような感覚。
 妻に言われて、朝一番で耳鼻科に行く。
 聴力検査をしてみると、ある音域から低い音がまったく聞こえなくなっていた。
「突発性難聴ですね。早くに受診してもらえて良かったです、治りがいいんです」と、まだ若い医師が丁寧に説明してくれた。この病気は、治療を始めるタイミングが早いほど完治する確率が高くなるのだという。
 医師は「原因は特定できていないのですが、ストレスや疲れが引き金になることが多いです」と続けて、疲れを溜めないようにと言った。
 仕事が特に忙しかった覚えもない。鬱ぎ込むほどのストレスも感じていない。
 医師のアドバイスに曖昧に頷くと、「働いていれば、疲れないわけにはいかないですよね」と物分かりの良い笑顔が帰ってきた。

 妻にメールで診察結果を知らせ、会社に電話を掛ける。
 課長が出た。
「病院に行きました。突発性難聴だそうです」
「そうか、大丈夫なのか?」
 大したことはないから、出勤するつもりでいた。
「…少し、耳鳴りと目眩がして…」
「それは良くないな、今日はそのまま休んだらどうだ?」
「申し訳ありません、お言葉に甘えます」
 電話を切って、自分に驚く。
 勤続二十年、初めて嘘をついて会社をさぼった。

 家に戻って妻にも嘘をつくのが億劫で、いつもの駅からいつも通りに電車に乗った。
 昼近くの車内は、通勤や帰宅時間と違って空いている。
 いつもは立ったまま眺める車窓を、座ってのんびりと眺める。
 いつも降りる駅に停車する。ホームに知った顔がないか、思わず見回した。
 再び電車が動き出してようやく気持ちが晴れる。
 ビクビクするぐらいならさぼらなければいいのに、と苦笑する。
 真っ青な空に、刷毛で掃いたような白い雲が浮かんでいる。
 電車は街中を抜けて、しばらくは川沿いを走る。
 土手にコスモスが揺れていた。

 左耳が聞こえづらくなっている。
 電車の響きも、水中で聞くようなもどかしさがある。それだけで、自分と外界に透明な膜ができたように感じる。
 医師は投薬だけで改善するだろうと言った。
 きっと私は、朝昼晩ときちんと薬を飲むだろう。
 子供の頃から真面目だけが取り柄なのだ。
 親や教師の言うことは素直に聞いたし、勉強もした。
 手が掛かる子ではないが、印象にも残らない。
 それは社会人になっても同じだった。
 地道に働くが目立ちもしない。
 急に欠勤すると言っても、疑われはしないが仕事に障りも出ない。
 面白みのない人間だと分かっている。
 だが、四十年以上、こうやって生きてきたので、それ意外の人生が思い浮かばない。
「今日は夜まで行方不明だ」
 そう呟くと、なんだかはしゃいだ気分になった。


 【…続きます】   


蟄虫培戸(むし かくれて とを ふさぐ)~


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春の啓蟄の反対、虫たちが冬ごもりの準備を始める頃です。
人間にも、冬眠という習性がプログラムされていればいいのに…。
そうすれば無駄なエネルギーを使わず、時間の流れも緩やかになって、今よりは多少は穏やかな世界になるのではないかしら。
…食糧難が深刻になった将来には、案外、現実的な話かもしれませんね。
今年は熊の出没が多いみたいです。
会社の同僚も、山で子連れ熊に出くわしてしまって寿命が縮まる思いをしたそうです。
冬眠前なのに、餌になるドングリなどが少ないようなのです。そして仕方がなく、山から里に下りて食べ物を探すという。
人も動物も、どうか穏やかな冬を迎えられますように。
木曽の御嶽山の噴火も、どうかこれで鎮まりますように。

海の旬は鯖などなど。
山の旬は里芋などなど。根菜が肥えてくる季節ですね。
デパ地下が大好きです。
東京に行くと、必ず絶対に欠かさず、デパ地下に行きます。
美味しいお土産をしこたま買い込もうと意気込むのですが、そして確かに「戦後の闇市帰りか!」というぐらいの大荷物になるのですが、結局はいつも似たようなラインナップになるのです。
年寄りの両親は、あまり新奇な食べ物を喜びません。移動の時間を考えると、お刺身のような生ものや宝石のようなケーキたちも持ち帰れないですし…。
鯖寿司、安心してお土産にできます。
やっぱり上等な鯖寿司は、身が厚くて脂が乗っていて美味しいですね。


次回は10月3日「水始涸」に更新します。
今年も残り3ヶ月余になりました。


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by bowww | 2014-09-28 08:58 | 七十二候 | Comments(4)
Commented by 高橋 at 2014-09-29 03:33 x
【人生とは、今日一日の事である】

デール・カーネギーという人の言葉だそうですが、
此度も拝読し、何やらふと、その言葉を思い出しました。

熊、この辺りでも出没します。
ただ、熊が出ると猟友会の人が撃ち殺す…というのが昔から大嫌いです。
伯母が言ってました、
「熊が出たんじゃない。熊の居る所に人が行ったんだ。熊は悪くねぇんだけんどなぁ…」
コレは自慢ですが、俺の地元は中々に田舎です(笑)
正に、熊の居る所です。
先祖は300年程前から、この地に住んでいる様ですが正に、熊が出たんじゃない、「熊の居る所に人が行った」所です。
それでいて熊が出た!撃ち殺せ!!
…って、余りにも勝手。
そんな気がしてなりません。
Commented by bowww at 2014-09-29 10:33
高橋さま。

「人生とは、今日一日の事である」。
色々な解釈ができそうな言葉ですね。
その一日一日が積み重なって、一生になるとも受け取れますよね。
私、力不足で長い物語が書けないのです。
登場人物の一日を取り出して、スケッチするような気持ちです。
この人は、何処へ行くのでしょうかねぇ。

自慢返しですが(笑)、私の住む辺りもなかなかの田舎です。
熊もイノシシも猿も、身近な存在です(昨日も近隣の村で熊に襲われたおじいさんがいました)。
そうなんですよね、人間が動物たちの棲家に入り込んでいるんですよね。
罠にかかった熊にお仕置きをして山に返したり、犬で追い払ったりという対策もあるようなのですが…。
共生はなかなか難しいですよね。
人間が「お邪魔してます」という気持ちを持たないといけませんね。
Commented by mofu903 at 2014-09-29 16:03
oriさん、こんにちは。
なかなかコメントできませんが、短編+時候の日記という絶妙な取り合わせを毎回楽しみに拝読しています。
『一房の葡萄』、重陽の節句、きのこにマルメロ。
私の心のキーワード(ほかに何と呼べばいいのか・・・)にピコンと触れる言葉たちに出会えるのも、嬉しくて(*^_^*)
ちなみに、今回のキーワードは、鯖寿司でした(笑)
Commented by bowww at 2014-09-30 11:10
ジャレットさま。

こんにちは。コメントありがとうございます♪
食い意地が張っているので、ついつい食べ物の話が多くなってしまいます…。
食べ物はもちろんですが、季節ごとに外せないキーワードがありますよね。
今は何と言っても、金木犀の香り!
我が家にはないのですが、ご近所のお庭から良い香りを(勝手に)分けて頂いています。

私は、ちょっと気持ちがささくれてくると、ジャレットさんのブログにお邪魔しています。
過去のブログから少しずつ。
もったいないから一気読みしないのです。
しょっちゅうお邪魔しておりますが、怪しいストーカーではありませんので、お見逃しくださいませ(笑)


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