休日の午後、ぽっかり時間が空いた。 友人と会う約束をしていたのだが、急な用事が入ったとかで昼前にキャンセルの連絡がきた。 せめて朝一番で言ってくれれば…と恨めしく思いながら、さて、どうしようかと考える。 買い物に行ってもいいのだが、休日の街中の喧騒を思うと気が乗らない。 だからといって、家の中に籠るにはもったいない晴れ間だ。 読みかけの本とコーヒーを入れた水筒を持ち、当てもなく車を走らせる。 途中、コンビニに寄って、チョコレートを買った。 再び車に乗り込んでから、思いつく。 隣の街の図書館に行ってみよう。 隣街の図書館は、私が住む街の図書館よりも大きく、蔵書も格段に多い。 住所が近隣市町村であれば、登録して本を借りられる。 母にせがまれて、何度か連れて行った。 母は行く度に「ああ、こんな本がある。あんな本もある。読みたいのばかりで困っちゃう」と嬉しそうに書棚の間を歩き回り、そして結局は何も借りずに「見てるだけで満足しちゃった」と帰るのだ。 思えば、あの頃は既に体力も気力も大分衰えていたのだろう。 母は二年前に亡くなった。 病気が分かってから精一杯のことをしたつもりでいるが、それは所詮、生き残った者の自己満足でしかなく、今もずっと後悔のようなものが胸の底に澱んでいる。 もっと早く気づいてやれたら、もっと気をつけていたら、もっとそばに居てやれたら。 母との思い出は、ふとした瞬間に何度も立ち現れる。 胸の底が、キシキシと痛む。 図書館の中に入るのはやめて、庭の隅にあるベンチに腰掛けた。 日が射したり陰ったりといった空模様だが、風はさらりと気持ちがいい。 芝生の上で、父親と小さな男の子がキャッチボールをしている。 庭の周りにぐるりと植えられた桜の葉は、既に色づき始めていた。 ここの庭では幾種類もの薔薇を育てていて、初夏には見事な花園になるのだが、さすがに秋風が立つ今時分は末枯れた景色に変わっていた。秋咲きの薔薇は慎ましく、少し寂しげだ。 少なくなった花を求めて蜂や蝶が集まる。息を静めて耳を澄ませば、熊蜂の羽音が低く響く。 母は、大輪より一重のノイバラのような花が好きだと言っていた。 思い出がまた次々と流れ出しそうになったので、慌てて本を開く。コーヒーを一口、飲む。 しばらくは字を目で追うばかりだったのが、次第に物語に引き込まれていく。 「ねぇ、甘いもの持っていらっしゃる?」 突然、耳元で声がした。 本を取り落としそうになるほど驚いて、声の主を探す。 いつの間にか、同じベンチに女性が座っていた。 黒いベルベットのボレロに黒いロングスカート。黒ずくめなのに喪服に見えないのは、コバルトブルーのシルクのストールを巻いているせいだろうか。黒も濃い青も、女性の白銀の髪によく映える。 「ねぇ、あなた。甘いものを持っていらっしゃるでしょ?」 不意をつかれたまま、私は黙ってチョコレートの箱を差し出した。 女性は一粒摘まみ上げ口に入れると、にっこり笑った。 「あなたも召し上がれ」 仕方がなしに、自分も一粒、口に放り込む。 女性は指についたチョコレートをちろりと舐めとり、ベンチに腰掛けたまま足をぶらつかせている。 「おばあさん」と呼ばれてもおかしくなさそうな年格好なのだが、仕草が少女めいているのだ。 「どうぞ、続きをお読みになって。お構いなく」 そう言われても、もう本には集中できるわけがない。 本を閉じると、女性は嬉しそうに私の顔を覗き込んだ。 「退屈な本だったのかしら。では、お喋りでもしません?」 無下に断ることもできなくなった。 仕方がない、傾聴ボランティアだ。お年寄りの話し相手になろう。 「…それであなたは、今もお母様を思い出して悲しくなってしまうのね?」 私は聞き役のつもりでいたのに。 女性はとても聞き上手だった。静かに相槌を打っていたかと思うと、こちらが考え込むような質問を返す。とりとめなくなると、「きっとこういうことね?」と言いたいことをまとめてくれる。 私は、我に返って呆然とした。 初めて会った見ず知らずの人に、こんなに喋ってしまうなんて。 私の表情を見て、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。 「心配なさらなくて大丈夫。私、もうすぐ行く身ですもの。あなたのお話も一緒に持って行って差し上げるわ」 そして、私の手の上に自分の手をひらりと重ねた。 軽くてあたたかい手のひら。 「…でもねぇ、もし私があなたのお母様だったとしたら、悲しみや後悔と一緒に思い出されるのは切ないわ。私の一番きれいだったとき、一番幸せだった顔を思い出してほしいもの」 分かっている。頭では分かっている。 言い返そうとした私の口に、彼女はチョコレートを一粒、放り込んだ。 舌の上で、じんわり甘さが広がる。 「すぐには無理よね。でもね、あなたは幸せにならなくてはいけないんですもの」 「あなたの悲しさを、三分の一だけ持って行って差し上げるわね。チョコレートのお礼」 もう一度微笑んだ彼女に答えようとしたとき、ボールが足下に転がってきた。 頭を下げる若い父親に、ボールを投げ返す。 そして振り返ると、彼女はもう居なかった。 私はわけも分からず、ぼんやりとベンチに座り込んだ。 気がつくと、置きっぱなしになっていた本の上にカラスアゲハが止まっていた。 漆黒の美しい羽を、呼吸をするようなリズムで開いたり閉じたりしている。 静かに手を差し伸べると、蝶はふわりと舞い上がり、コバルトブルーの輝きを一筋残して消えた。 ~玄鳥去(つばめ さる)~ 春、日本にやってきて子育て(それも2回!)を終えた燕たちが、暖かい南の地へ帰っていく季節です。 そういえば、あれだけ飛び回っていた燕たち、すっかり姿が見えなくなりました。 数千キロの旅、無事でありますように。 私の住む辺りは、そろそろ稲刈りの季節。 今週末の連休がピークになるでしょうか。 夜気に甘い枯れ草のような匂いが混じります。 きっと藁が乾いていく匂いです。 むふふ。 もうすぐ新米の季節。 スーパーには生筋子が並び始めました。 家でほぐして漬けたイクラは、市販の味付けイクラとは別物ですね。 炊きたての新米と自家製イクラ…。 思い浮かべただけでニンマリしてしまいます。 …食欲の秋、絶賛開催中。 海の旬は、舌平目(フレンチによく使われるお魚ですね。でも、甘辛お醤油味の煮付けの方が馴染み深いです)、昆布などなど。 山の旬は、葉唐辛子(ちょうど昨日、母が佃煮をこしらえました)、梨などなど。 最近は手に入る洋梨も種類が増えました。子供の頃はパサパサして薬くさいような変な食べ物だなぁと思っていたのに、大人になって熟したラ・フランスを食べてびっくり。 なんて美味しい果物なんだろう!と、一気に好物の仲間入りです。 ただ、熟し加減の見極めが難しいのですよね。 和梨も、とても美味しい品種が増えました。 甘い和梨を齧ると「甘露!」と思います。 そういえば、「二十世紀梨」ってどこに行ってしまったのかしら。 次回は9月23日「雷乃収声」に更新します。
by bowww
| 2014-09-18 09:22
| 七十二候
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Comments(3)
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親戚のおばさん(従兄弟小母…と、いうヤツで良いのでしょうか??!父親の従兄弟)が、祖母の葬儀の帰りに、俺にこう言ってきました。
「特別な事なんかしてやらなくてもいいの…ただ、無事に健康でいてくれるだけで、十分、親孝行なんだからね…。ヒロちゃん(博之というので、そう呼ばれます)貴方のお父さんを、よろしくね…」 親孝行とは…何か一大企画を設ければ良いのかな?と、当時考えていた俺には以外というか、驚きがありました。 それから二年後、従兄弟小母は逝きました。 祖母の葬儀以降、会ってはいなかったので、あの時の言葉がそのまま遺言となり、俺の心に今も残っています。 その後、俺は心の弱さから、橋の上に立ち、自ら命を投げ出した事がありました。 入院先の病院で、ある看護婦さんに「よほど徳の高い仏様がついているのねぇ!」 そう言われた時、 従兄弟小母が言った「無事に健康でいてくれるだけで…」 その言葉を思い出しながら、 (恐らく…いや、 きっと、俺は従兄弟小母に助けられたのだろう…) その時、ふっ…と、感じました。
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高橋さま。
大切なお話を聞かせてくださって、ありがとうございます。 お会いしたこともない、何にも知らない私の言葉は、あまりに軽薄かも知れませんが…。 高橋さまがこちら側に戻ってこられたのは、おっしゃるように、きっとおばさまやお祖母さま、お祖父さまといった方々の助けがあったからだと私も思います。 でも。 こうも思います。 高橋さま自身が「弱い」と思っていたその心が、土壇場で「生きたい。生きなきゃ」と強く願ったからではないかな、と。 どんなに徳の高い仏様でも、本人に生きる気持ちがなければ助けられないと思うのです。 弱い心なんかじゃなかったんでしょうね。 戻ってこられて、本当に良かった。 摂食障害の傾向がある友人がいます。 生きている意味が、時々、分からなくなると言います。 体重が減って、体力が落ちて、全身が息絶え絶えといった感じになります。 そうなると、あらゆる臓器も小さくなるそうなんですね。 それでも、一回りも小さくなった心臓が、「生かそう、生かそう」と必死に動き続けているかと思うと涙が出てきます。 小さな自分の心臓のためにも、「生きたい」と思ってほしい。 助けてくれる人たち(彼岸にいる方々も含めて)に深く感謝しながら、自分自身の底力に素直に驚いて、明るい方へ歩いていきたいな、と思います。 疲れたら、美味しくてあたたかいものを食べて、ちょっとだけサボらせてもらえばいいんです。 …と、自分に甘い私は思うのです。
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