第四十一候 天地始粛


 会社を出たときには夜の八時を回っていた。
 この辺りでこの時間にアルコールなしで過ごせる飲食店は、ファストフードかコーヒーチェーンの店ぐらいだ。
 亜季子は駅近くのコーヒーショップに寄った。
 レジでアイスドリップを注文しかけて、「やっぱりホットにしてください」と訂正する。
 ショートヘアがよく似合う店員が、「急に涼しくなりましたもんね、温かい飲み物がほしくなりますよね」と人懐こい笑みを浮かべた。
「一日中、冷房の中で仕事していたから…」と亜季子は答える。
「では、ゆっくりあたたまってくださいね」とカップを渡される。
 この店の接客はあまり好きではない。工場のラインのようなファストフード店よりはよほどましだが、いかにも「人が好さそ気」な笑顔と応対が鼻につくのだ。
 それなのに、つい言葉を返してしまった。
 なぜだろうと自問し、今日一日の中で一番人間らしい会話だったからだと気づく。
「私も安いもんだ」と亜季子は一人、苦笑する。

 店内の客席は、大半が若い人たちだった。
 何かにつけて額を寄せ合うカップル、飲み会の後の酔い覚ましなのか、どんよりと会話もなく向かい合っている会社員、炭酸飲料の泡が沸き立つように喋り続ける女の子のグループ、そして本を読んだりパソコンをいじったりしている一人客。
 亜季子も窓際のカウンター席に座り、コーヒーカップを両手で包んだ。
 亜季子の会社は八月が決算月に当たる。ラストスパートだと上司からプレッシャーを掛けられる。
 数年前までは、その高揚感がたまらなく好きだった。
 営業の仕事は天職なのではないかと勘違いをするぐらい、仕事が楽しかった。小さなグループのリーダーを任されたときも、そつなくこなした。
 結婚は勢いだとよく聞くが、確かにそんなものかも知れない。
 一番忙しくしていた四年前に、取引先で颯太と出会い、トントンと結婚した。
 子供はいないが、公私ともに充実していると言っていいのだろう。
 窓の外に目を遣る。
 大きなガラス窓は鏡のように、店内の様子を映し出す。
 亜季子は自分の顔から目を逸らす。
 口角が下がり、まぶたが窪んで、十歳ぐらい老けて見える。
 さりげなく、額やこめかみに散らばる後れ毛を撫でつけ、椅子の上で背筋を伸ばす。
 亜季子の背後では、若い人たちが相変わらず、思い思いに時間を潰していた。
 外は雨が降り出した。濡れた路面に明かりが滲む。
 雨を言い訳に、もう一本、電車を遅らせることにした。

 同僚や上司の些細な言葉がやけに引っかかり、いつまでも抜けない刺のように疼く。
 今までだって、心ない言葉やあからさまな嫌みを投げつけられたことはある。悔し泣きは数知れない。
 だが、その悔しさが亜季子の原動力になったことも確かだ。
 それなのに最近は、悪意のない、他愛ない一言に躓く。
 職場の高揚感に気持ちがついていかず、気持ちばかりが焦っていた。
 会社での出来事は家に持ち込まないつもりでいたが、苛立ちが言葉の端々に滲んだのかも知れない。
 今朝、穏やかな颯太が珍しく声を荒げて、「自分だけが働いていると思ってるんじゃないか?」と亜季子を詰った。
「何が言いたいの?私、家事で手を抜いたことあった?」
「そんなこと言ってるんじゃない」
 苛立ちは伝染する。お互いに言わなくていいことまで言い合った。
 そして無言のまま、それぞれ出勤した。
 思い返し、亜季子はため息をかみ殺す。
 カップの中のコーヒーは冷めかけている。

 見るともなく窓の外を見て、ガラスに映る客たちの様子をうかがう。
 いつの間に座っていたのか、年老いた夫婦がすぐ後ろのテーブル席についていた。
 亜季子の両親よりも少し上だろうか。
 夫は紺色のギンガムチェックのシャツに、焦げ茶色のベストを着ている。妻の方は、ラベンダー色のブラウスに白いカーデガンを羽織っていて、なかなか洒落たカップルだと亜季子は思った。
 特に会話もなく、二人で静かにコーヒーを飲んでいる。
 時折、視線が合うと相手に軽く頷いたり、微笑みを見せたりする。
 長年連れ添うと、特に言葉も必要ないのだろう。
 もう一度出かけたため息を、冷めたコーヒーと一緒に飲み込んで席を立った。
 カタン…と音を立てて、テーブル席に立てかけてあった傘が倒れた。
 亜季子の鞄が、老夫婦の傘に引っかかってしまったらしい。
 慌てて詫び、紺色の大きな蝙蝠傘を拾い上げる。
 夫はおっとりと手を振って「構わないですよ」と答えた。
 テーブルには、彼一人だけが座っている。
 妻の姿はない。
 テーブルの上にはカップが一つ、それと古い映画のパンフレットが置いてあった。
「…あの、奥さまは…」
 思わず、亜季子は尋ねた。
 彼はきょとんと亜季子を見返す。
「…あの、この映画、奥さまとの思い出の映画なんでしょうか」
 咄嗟に亜季子は、パンフレットを指しながら質問し直した。
「うちの両親も好きな映画なものですから」
 男性は「ああ」と納得したように答える。
「そうなんですよ、この近くの映画館でね、昔の名画をリバイバル上映しているものですから」
 ばあさんと若い頃、よく観に行ったんですよと、先ほどと同じ柔らかな笑顔を見せた。
「それは素敵ですね」と亜季子も笑顔で返す。
「奥さま、ラベンダー色がよくお似合いですね」と胸の中だけで呟くと、亜季子は男性に会釈して店を出た。
 外から店内を振り返ると、男性がパンフレットを広げているのが見えた。
 テーブルの向かい側から、妻が嬉しそうにそれを覗き込んでいる。

 電車に乗って、颯太に連絡しようと携帯電話を取り出した途端、メールを受信した。
 颯太からだった。
『スグ カエレ。ハラペコ』
『スマヌ。イソギ カエル。ケサノブンモ スマヌ』
 亜季子はメールを送ってから、電車の窓に映る自分の顔を眺めた。
 



~天地始粛(てんち はじめて さむし)~
 


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暑さが静まり、朝夕の涼しさが増す季節。
「さむし」とは、また大袈裟な…と思っていたのですが、ここ数日の雨は残暑なんか根こそぎ洗いさってしまっているようです。
肌寒くて長袖の羽織ものを慌てて引っ張り出しました。
お日さまと青空が恋しいです。。
もう少しだけ、夏の名残を楽しませてほしいんですけれど…。
秋の実りのためにも。

海の旬はスルメイカ、ハゼなどなど。
山の旬はイチジクなどなど。
昔、祖母の家に行くと庭の木で熟したイチジクを捥いでくれました。
「oriが好きだから」と、熟してない実まで取って、周りから叱られたそうです。
おばあちゃんに貰ったのより美味しいイチジクには、まだ出合っていません。
昔、江國香織が何かに、「ドライイチジクとレーズンバターの組み合わせは、お酒にピッタリ」と書いていました。
合わせるならラム酒あたりでしょうか。
試したいけれど、レーズンバターのカロリーが恐ろしくて実行できずにいます…。


次回は9月2日「禾乃登」に更新します。


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by bowww | 2014-08-28 10:10 | 七十二候 | Comments(4)
Commented at 2014-08-28 14:15
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by 高橋 at 2014-08-28 17:46 x
最後のメールのやり取りに、ほっこりした気持ちになりました。
亜季子さん、今朝より少し、心が温まって帰られたでしょうかね。

それにしても、さむし と言えまだ8月だしなぁ…などと悠長に構えていたのですが、見事に空気の質が変わりましたね…。
因みに俺が勤める会社も、今月が決算…という訳で、社長がデスクワークに追われております。
Commented by bowww at 2014-08-28 20:38
鍵コメ・ohu…さま。

わ~♪嬉しい♪
かりんとう饅頭とお茶でも用意しておけば良かった…。

とってもとっても可愛らしいお返事、ありがとうございました。
お二人の素敵な毎日を覗いては、ほんわり幸せな気分を味わっています。
これからの更新も、楽しみにしております。
こちらこそ、よろしくお願いしますね。
Commented by bowww at 2014-08-28 20:47
高橋さま。

ケンカした後のメール、どんな感じなのかな…と考えていたら、こんな文面が思い浮かびました。
お夕飯は、颯太さんが用意してくれてあるのかな、とか。
亜季子さんもほっこりしているといいなぁ。

いつもの年なら、9月半ば頃まで暑さが続きますもんね。
まだ8月なのに、この涼しさ。
高橋さまも、お風邪、召しませんように。


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