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第四十候 綿柎開

【…前回からの続きです】


 少女は俯きがちにぶらんこを揺らし、時折、耳を澄ますように顔を上げた。
 キィ…キィ…と、鎖の軋む音が晴一が座るベンチにまで聞こえてくる。
 不意に、自転車が晴一の横を走り過ぎた。
 少女はキュッとぶらんこを止めた。
 自転車もぶらんこの前で止まった。
 自転車には、やはり高校生ぐらいの少年が乗っていた。晴一の場所からは、彼の背中が見えている。その後ろ姿にも乗っている自転車にも見覚えがあるような気がしてならない。
 少年は躊躇ったように見えたが、少女に声を掛けるでもなく、そのまま走り去ってしまった。
 少女は、再びぶらんこを揺らした。


 夏の大会が終わって部活の三年生が引退し、夏休みも終わる頃だった。
 せっかくの夏休みなのに、数学の成績が悪かった晴一は学校の補習を受けていた。
 朝から昼過ぎまでみっちり絞られた後は、同じ立場の友達と近くのファストフードの店で愚痴を言い合ってから帰宅した。
 あの日も友達と別れ、いつもの駅のホームで電車を待っていた。
 西日に照りつけられ、うんざりしているところで「…晴一君?」と声を掛けられた。
 振り向くと、透子先輩が立っていた。
 いつもの制服とは違う紺色のワンピース姿を見ただけで、晴一はドギマギした。
 声が上擦らないように、細心の注意を払って挨拶を返す。
 先輩は「補習の帰りでしょ?」と笑った。
 そして、同級生の家に遊びに行くのだと言って、晴一と同じ電車に乗り込んだ。
 透子先輩と並んでつり革につかまって、何を喋ったのかは思い出せない。
 電車が大きく揺れる度、先輩にうっかり触れてしまわないように足を踏ん張った。車内は冷房がきいていたはずなのに、晴一の耳は熱いままだった。
 晴一が先に電車を降りた。
 ホームから見送ると、先輩が小さく手を振った。
 駅から家まで、猛スピードで自転車を走らせた。にやけた顔を誰かに見られるわけにはいかなかったから。

 次に先輩と学校の外で会ったのは、先輩と顧問の噂話が広がった秋の初めだった。
 部活の練習を終える頃には、すっかり暮れかかっていた。
 電車を降りて自転車置き場に行くと、そこに透子先輩が居た。
 どうしてここに居るのか、誰か待っているのか、あの噂は本当なのか。
 晴一の頭の中は、一瞬で沸き立った。言いたいこと、聞きたいことが、ぶちまけられた玩具のように散らばって収拾がつかない。
 先輩は静かに立っていた。
 晴一の顔を見て、何か言おうと唇を開きかけた。
 晴一は黙って会釈して、通り過ぎた。
 引き止められるかと思ったが、晴一を呼ぶ声はなかった。
 自転車を漕ぎながら、透子先輩はやっぱり姿勢がきれいだと、どうでもいいことを思った。
 それから間もなく、先輩は学校から居なくなった。


 晴一はベンチから立ち上がって、ぶらんこの少女の前に立った。
 少女はまた、ぶらんこをキュッと止めた。
 切れ長の瞳がきっちりと晴一を見上げた。
「彼はきっと、君の幸せを願っていると思うよ」
 あのとき言えなかった言葉。
 少女は、こくりと頷いた。
 霧はいつの間にか晴れていた。

 実家に着くと、すでに夕飯の時間だった。
 両親や妹夫婦と食卓を囲む。
「そういえば、あの駅、全然変わってなくて驚いた。レトロでいいかも知れないね」と晴一が何気なく話すと、家族全員が首を傾げた。
「一昨年、駅舎ごと建て替えたわよ」と母親が言う。
 通勤に毎日使っているという義理の弟も、「だいぶ小ぎれいになっていませんでした?」と怪訝な顔をする。
 腑に落ちないまま、その話題はそのままになった。
 帰る日は、駅まで妹が車で送ってくれた。
「ほら、お兄ちゃん、新しい駅でしょ?」
 確かに駅舎は新しかった。出入り口は自動ドアだし、ガラス張りの待合室にだるまストーブの姿はない。
 では、あの霧の夜はなんだったのか。
 機械的な声のアナウンスと妹に急かされて、ホームに急ぐ。
「ホームは昔のままだけど…」と独り言を言いながら見渡すと、ベンチに座っていた女性が晴一に気づいて立ち上がった。
 姿勢がいい。
 晴一は眩しさに目を細めたまま、彼女に向かって歩いていった。
 


綿柎開(わたの はなしべ ひらく)~



第四十候 綿柎開_b0314743_03474325.jpg


綿の花が咲き終わって約1ヶ月、萼(=柎、はなしべ)が弾けると、中からフワフワの綿毛に包まれた種が出てくる、そうです。
時々、花屋さんでも見かけることがあります。
二十四節気は処暑。暑さが一段落して秋が深まる頃のはずですね。
実際は「暑さ寒さも彼岸まで」で、残暑はまだまだ厳しいのですが。
とは言うものの、今年の夏は覚悟していたほど暑くなかった気がします。
そのかわり、グズグズ天気で湿気も多い日ばかりで。
広島などでは、大きな大きな災害も起きてしまいました。大切な人を亡くし、財産を損なわれた方々のことを思うと胸が痛くなります。
振り返ると、あまり陽気な夏ではなかった気がします。
どうか穏やかに季節が過ぎますように。

海の旬はヒラマサ、カサゴなどなど。
山の旬はパプリカ、スダチなどなど。
稲が実り始めました。新米の季節が待ち遠しいです。


次回は8月28日「天地始粛」に更新します。

by bowww | 2014-08-23 09:35 | 七十二候


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