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第三十九候 蒙霧升降

 切符が、ない。

 晴一(はるかず)は、改札口に向かう人の波を外れて、慌ててズボンやシャツのポケットを探った。
 鞄の底をや財布の中、車中で読んでいた書類の束の間まで探してみたが見つからない。
 落としてしまったらしい。
 仕方なく、駅員のいる窓口に行って「特急で○○駅まで来て乗り換えたのですが、○○駅からの切符をなくしてしまって…」と告げた。
 白髪頭の色の黒い駅員は、晴一を一瞥すると「二百三十円」と言った。
 切符は確かに買ったのにあらためて料金を取るのかと腹が立ったが、疑われなかっただけましだと思い直し、素直に小銭を払って改札を抜けた。

 高校時代に通学に使っていた電車で、久しぶりに帰郷した。
 ちょうど生徒や学生たちの帰宅時間に重なって、車内は混雑していた。
 男子も女子も友達と群れて他愛ない話に夢中になっている様子は、晴一が高校生だった頃と変わりがなかった。
 ただ、どの子もスマートフォンを片時も離さず、友達と笑い合いながらも画面から目を上げない。「器用なものだな」と感心しつつ、馴染めないと思った。
 子供たちだけではない、大人たちも四六時中スマホをいじっている。
 六人掛けの座席に座った会社員やOLが、全員、小さな端末を見つめている様は滑稽でもあった。
 晴一は「…なんて、自分だって携帯を手放せないくせに…」と胸の中で自嘲したとき、一人の少女に気がついた。
 まっすぐな黒髪を背中まで伸ばし、眉の辺りで切り揃えた前髪は、意思の強そうな目元を際立たせていた。彼女が着ている赤いタータンチェックのスカートと襟に校章がついた白いシャツは、晴一の母校の制服だ。
 連れは居ないようで、つり革に掴まって一人で窓の外を眺めていた。
 姿勢のいい子だな、と思って眺めていると、少女がふと此方を見た。
 一瞬、目が合う。
 痴漢と間違われてはいけないと慌てて目を逸らしてから、いつかも同じようなことがあったと、記憶の奥で何かが身じろぎした。

 駅舎は昔のままだった。
 狭い待合室の真ん中には、夏でもだるまストーブが鎮座している。
 冬には電車を待つ人たちが、かじかんだ手をかざして束の間の暖を取った。
 もっとも高校生の晴一は、いつも発車ぎりぎりの時間にホームに駆け込んでいたのだから、ストーブとは縁がなかったのだが。
 ストーブを囲むベンチには、誰かが作ってくれた薄い座布団が敷いてある。
 その模様にも見覚えがあるような気がして、晴一は「まさかな」と呟いて苦笑した。
 高校を卒業して県外の大学に進み、そのまま就職した。地元を離れて二十年近くになる。
 もちろん、年に数回は実家に戻ってきていたのだが、いつも自分で車を運転して帰った。
 今回は休みを取ったものの仕事が片付かず、移動の時間を使って書類の整理や確認をしたかったため、電車での帰郷となった。
 改札口で手間取ったせいか、同じ電車から降りたはずの乗客たちの姿はほとんどなく、駅舎はがらんとしていた。
 晴一はガタピシ軋む駅舎のガラス戸を開けた。
 途端に濃い霧が流れ込む。
 晴一が育った町は標高が高い盆地にあるため霧が立ちやすい。特に駅の辺りには大きな川が流れているせいか、川霧が立ち籠めることも多かった。
 駅前のロータリーの街灯が霧に滲む。
 家までタクシーを使うつもりでいたのだが、間が悪いことにタクシー乗り場には一台も停まっていなかった。
「仕方がない、歩いて帰るか」
 乳白色の霧に覆われた懐かしい風景の中を歩くのも悪くない。
 晴一は鞄を持ち直して歩き出した。

 霧は濃く淡く街並を覆っていた。足下だけはぼんやり明るいのに、数メートル先が見通せない。
 晴一が高校生の頃から既に寂れ始めていた商店街は、それでも辛うじて数軒が看板に明かりを灯している。
 商店街の外れにある小さな公園で、晴一は足を止めた。
 酔狂で歩いてみたものの、大きな荷物のせいか日頃の運動不足のせいか、予想以上に息が切れる。
 ベンチに腰を下ろし、持っていたペットボトルの水を飲み干す。
「透子先輩だ」
 唐突に思い出した。
 先ほど電車で出会った少女は、透子先輩に似ている。
 高校時代、晴一は剣道部だった。
 男子部は弱小だったが、女子部は地区の強豪チームだった。
 透子先輩は晴一たちの一つ上の学年で、三年生になると主将を務めた。
 もの静かで普段は目立たない生徒だったが、正面に立つと凛とした眼差しが眩しくて、晴一はなかなか気軽に話しかけられなかった。
 晴一をはじめ、透子先輩に憧れていた生徒は多かったと思う。
 だからこそ、先輩が剣道部の顧問の教師と付き合っているという噂が立ったとき、真偽はともかく騒ぎは大きくなった。
 透子先輩は卒業式の半年前に学校を辞めた。
 教師は間もなく遠くの学校へ異動になった。
 晴一は裏切られたような腹立たしさと寂しさを感じたが、それを伝える術も勇気もなかった。

 晴一はベンチに座ったまま、ぼんやりと霧の流れを目で追っていた。砂場を這い、滑り台を霞ませ、ジャングルジムをすり抜ける。
 霧が途切れたとき、揺れているぶらんこが見えた。
 さっきの少女が一人、人待ち顔でぶらんこに座っていた。


 【次回に続きます…】  
 



~蒙霧升降(ふかき きり まとう)~



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朝夕の気温が下がって、霧が立ち籠める季節です。
私の住む辺りは、ずっとぐずついたお天気が続いていて、もう秋の長雨シーズンなのかも知れません。。
暑くなるなら、カラッとしてほしいものです。

車の免許と取ったばかりの頃、調子に乗って一人で高原までドライブに出かけました。
「○○ライン」という立派な名前がついた道路なので、なんの心配もせずに車を走らせたのですが、市街地を離れれば対向車とすれ違いもままならぬ細い山道…。
若葉マークをつけてビビりまくりながら何とか高原を目指しました。
広い道路に出てほっとしたのも束の間、ほんの数分のうちに濃い霧が立ち籠め始めました。
2メートル先も見通せない霧です。
下界に降りるにも、どちらに向かえばいいのかさえ分かりません。
山の霧、恐るべしです。
海の近くなら、海霧なのでしょうか。
海の上で霧に巻かれるのも恐ろしいでしょうね。

海の旬はコチ(高級魚ですね、どんなお味でしょうか)、真蛸などなど。
山の旬はカボスなどなど。
今が旬のトウモロコシ、先日、うんと奮発して行った日本料理店で、「水とトウモロコシだけで作りました」というスープを頂きました。びっくりする甘さで、調味料を何も使っていないというのが信じられないほど。
最近のトウモロコシは、本当に甘く美味しくなりました。
でも、子供の頃に食べた真っ黄色のトウモロコシ(皮がゴワゴワして、甘さも当たり外れがある)も、ちょっとだけ懐かしかったりします。


次回は8月23日「綿柎開」に更新します。


by bowww | 2014-08-18 09:58 | 七十二候


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