第二十五候 蟷螂生

 気が付くと、僕は長谷川沙織の手元ばかりを見ていた。
 料理を取り分ける、グラスや小皿を持ち上げる、箸を使う。
 ネイルを施していない爪は短く切り揃えられている。手の甲はふっくらとしているのに、指は細くて長い。
「田崎君はビールでいいの?」
 彼女はそう言って、僕のグラスにビールを注いでくれた。瓶を支える手首と添えた指がよく撓る。
 仕草の一つ一つが緩やかなのだ。
 ビールを飲み干してグラスをテーブルに置いたとき、そう気が付いた。
 仕事中は、同じ手がてきぱきと的確に動くのに。

 大勢の飲み会が苦手で、必要に迫られなければ出席しない。
 今夜の会社全体の宴会も欠席する理由を探していたが、斉田課長に「当然、出るよな?」と釘を刺された。
 渋々と会場に足を運ぶと、隣の席に長谷川さんが座っていた。
 総務部の経理担当で、営業部の僕は、仕事以外でほとんど喋ったことがなかった。
 いつもデスクで伏し目がちに電卓を叩き、細かな数字を計算している。年齢も社歴も上の女性ということもあって、受付の女の子たちへ言うような軽口も出てこなかった。
 だから当然、制服ではない私服の長谷川さんも初めて見た。
 濃紺のシルクのブラウスに、象牙色のレースのタイトスカート。職場では一つに束ねているだけの髪を、緩く巻いて肩まで下ろしている。
「長谷川さんは何を飲んでるんですか?」
 返杯しなくてはと訊ねると、彼女はこちらに半身を傾けた。
「ごめんね、私、右耳がよく聴こえないの。騒がしい場所だと、特に聴こえにくくて
…」
 言いながら、右の耳にさらりと髪をかけた。
 一瞬、白いうなじが露になった。
「すみません、何も知らなくて…」
 声が届くように、僕も自然と彼女の方に半身を傾ける。
 柔らかな花の香りがした。
 
「長谷川は何でもグイグイ飲めるよな」
 斉田課長が、後ろからいきなり声を掛けてきた。
「あら、人をうわばみみたいに…。斉田君は飲んでる?」
「俺は車だから、ウーロン茶。田崎は弱いんだから、あまり飲ませないでくれよな」
 課長は、僕の後頭部をパシッと叩き、
「お前も先輩に注がせてなにやってるんだ?酌に回る立場だろ?」
 僕は慌ててビール瓶を持って立ち上がった。
 確かに上司の誰にも挨拶に行っていなかった。さすがにまずい。
 一通り、ビールや酒を注いで回って戻ると、長谷川さんは僕の同期の溝口と話し込んでいた。空になったワイングラスをゆらゆらと回している。溝口はだいぶ酔っているようで、長谷川さんの顔を覗き込むようにして話し続けていた。
 僕はなんとなくつまらなくなって、テーブルを離れた。
 
 宴会がお開きになり、二次会に行く気もない僕は駅に向かって足を早めた。
「おい、送っていこうか?」
 斉田課長に呼び止められた。
 上司に運転させて帰るなんて気詰まりだから断ろうとしたが、ちょうど雨が振り出し、傘を会社に忘れてきたことも思い出して甘えることにした。
「長谷川さんて、課長と同期なんですね」
「ああ」
 車の中で、少し沈黙が続く。
「田崎さ、お前、もう少しだけでいいから、社内の噂にも気を配れ」
「はい?」
「長谷川さ、専務のお気に入りなんだよ」
 僕は彼女の撓る指を思い出した。
「今年は溝口が犠牲者だな」
 課長は苦々しげに呟いた。

 しばらくして、溝口は地方の支社に異動になった。
 あの宴会以来、僕はますます飲み会が億劫になった。



〜蟷螂生(かまきり しょうず)〜



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梅雨入りしました。
しばらくはジメジメとした憂鬱な日々が続きますね。
二十四節気も移り、芒種です。穀物の種まきや麦の刈り入れなどに適した時期を指すそうです。
カマキリ、卵から孵化したばかりのチビチビカマキリは可愛いです。
いっちょまえに鎌を振りかざしたりして。
でも、カマキリと言えば、メスの凶暴さが有名ですよね。
交尾の際に、相手のオスをそのまま食い殺して栄養源にしてしまうという…。
頑張れ、男性諸氏。

海の旬はマナガツオ、アイナメなどなど。
山の旬は茗荷、ラッキョウなどなど。

次回は6月11日「腐草為蛍」に更新します。
 



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by bowww | 2014-06-06 09:51 | 七十二候 | Comments(0)


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