第十一候 桜始開

「日が傾くと肌寒くなりますから…」と、宿の女将が親切に声を掛けてくれた。
 荷物になるかと思ったが、薄手のコートを持って出ることにした。
 この宿を使うのは三度目になる。
 温泉のある古い宿場町で、落ち着いた風情が気に入っていた。
 桜の季節に来たのは初めてだ。
 一人で訪れたのも、初めてだ。

 四年間付き合った彼と、春が来る前に別れた。
 互いの仕事が忙しくすれ違いが続き、気づけば修復できないほど距離ができていた。二人ともやり直すという選択肢はなかった。
 寂しさはもちろんあるが、自分を責めて彼を追いつめて再び自分を責めて…という無限ループから脱出できて、憑き物が落ちたようにさっぱりしているのも事実だ。
 旅行をしようと思い立ったとき、何も考えずに慣れている場所や宿を選んだ。「思い出の場所へ一人旅だなんて、未練がましかったかしら」と電車に揺られながら思わず苦笑いが出た。

 川の堤防は桜並木になっていて、地元の人も観光客ものんびりと散歩を楽しんでいた。日当りのいい場所から花を咲かせている。川からの風が冷たいのか、周りよりは多少遅れ気味だ。
 小さな寺には自慢の枝垂れ桜が咲き誇り、いつもは静かな境内も賑わっていた。檀家の人たちが、テントで甘酒を振る舞っている。
 昔の街道をぶらぶら歩き、一休みしようと彼とも来たことがある喫茶店に入る。中庭に濃いピンクの桜が噴き上がるように咲いていた。ヒガンザクラの仲間だろうか。この庭に桜があったとは気づかなかった。
 コーヒーを持って来てくれた女の子に桜の話をすると、「ちょうど良い季節にいらっしゃいましたね」と明るい声が返ってきた。

 喫茶店の居心地が好かったため、つい長居をした。
 外に出ると、街道沿いの家々に明かりが灯り始めていた。コートを羽織って宿への道を急ぐ。
 宿の前庭には大きなソメイヨシノがある。
 ほの暮れに見る満開の桜は、白々と光を発しているようだ。僅かな風に枝が揺らぎ、花びらをひとひら、またひとひらと散らせた。掌に受けると、ひんやりと冷たい。
「桜、綺麗だよ」と彼に伝えようと思いかけて苦笑いをする。
 なんでもない呟きを、もっと伝えていたら、聞いていたら、二人の結論は違ったものになっていただろうか。
 玄関に入ると、女将が笑顔で迎えてくれた。


人恋し灯(ひ)ともしころをさくらちる  加舎白雄


〜桜始開(さくら はじめて ひらく)〜


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桜、東京では開花宣言が出たみたいですね。
私の住む辺りでは4月11日頃だそうです。でも暖かさが続くようなので、多少は早まるでしょうか。
今はようやく、梅が咲くかな、という季節です。
桜にこんなに心を奪われるようになったのは20代後半だったと思います。
名所なんかではない、自分だけの桜をいくつか決めていて、睡眠時間を削ってでも開花から落花まで見届けます。「ものぐるほしけれ」なレベル。
写真は数年前のもの。毎年、カメラを持って行くのですが、「うわ!うわ!」と浮かれて桜をアップで撮るため、後でどこの桜だったのか分からなくなるのです。。

祖父が亡くなったのは4月。花冷えで桜が長持ちした春でした。
ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ  西行法師
生前、この歌を愛誦していたとかいないとか。
かっこつけ屋だったからなぁ、うちのじいちゃん。

海の旬はサヨリ、モズク(ワカメや昆布も美味しい季節ですよね)。
山の旬は浅葱、アスパラガス。緑色の野菜が増えてきます。

次回は3月31日「雷乃発声」に更新します。


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by bowww | 2014-03-26 09:26 | 七十二候 | Comments(0)


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