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第八候 桃始笑

【前回からの続きです…】

 グラス二杯飲んだところで、そろそろボンヤリしてきた。立ち上がるのが億劫になる。
「それが今のところのあなたの限界。よく覚えておきなさい」
 叔母はそう言ってグラスを片付け、コーヒーをいれた。小さいけれど、甘みも苦みもズシンと効かせたチョコレートケーキを取り出し、ゆるく泡立てた生クリームを添えてくれた。こんな時は手早い。
 暫く、最近読んだ本や好きな映画の話など、とりとめなく話した。
 今日は同級生たちとの約束があったのだと言うと、「あら、邪魔しちゃったわね」と片頬だけで笑った。
「なんとなく苦手なの。一人ひとりと会うのは楽しいんだけど…。大勢になると疲れちゃうし。卒業式終わってから、もう何度も遊んでるし…」
「気になってた彼は来なかったんでしょ」
 図星だ。
 同じクラスの彼は、気が付くといつも、教室の隅で本を読んでいた。付き合いが悪いわけではないらしい。仲の良い友人数人とよく笑い合っていた。それでも彼の名前を聞くと、目を伏せてページを繰る姿が思い浮かぶ。
 一度だけ、何気ないふうを装って何を読んでいるのか訊ねてみた。「ん?」と本の背表紙を掲げて見せて、「わりと面白いんだよ」と笑った。
 叔母の部屋で同じ本を見つけて、貸してほしいと頼むと、「あなたにしては珍しいジャンルね。誰に教わった?」と追求が始まり、つい白状させられてしまったのだ。
 好きとかじゃなくて、ただちょっと気になって…本もたくさん読んでいるみたいだし…。もう少しだけ話をしてみたい…ぐらいの気持ち…。
 彼も希望の大学に合格して、一足早く東京に行ったそうだ。
「私なんかと話したって面白くないだろうし…」
 東京には、可愛くて頭が良くて面白い子がたくさんいるだろうし…。
「『私なんか』は、最近のあなたの口癖ね」
 叔母はケーキを大きく切り分けて口に運ぶ。
 ベランダで猫の鳴き声がした。ギンが「中に入れろ」と呼んでいるらしい。
 叔母が窓を開けるとスルリと入ってきて、叔母の隣の椅子に飛び乗った。毛がところどころ抜けて、左の前脚には黒くなった血が滲んでいた。
「ギン、さっき公園で喧嘩してたよ」
 私がそう言うと、ギンはちらっとこちらを見た。「余計なことを言うな」ということだろうか。
「あら、じゃあそれで怪我したのね。見せてごらん」
 叔母に前脚を捉えられ、迷惑そうに一声鳴いた。
「骨は折れてないわね。名誉の負傷だ。舐めておけば治る」。そう言って叔母はギンを解放した。ギンは言葉が分かったかのように傷口を丹念に舐め始めた。
「ギンは強いのよ。こう見えて『喧嘩上等』なの。売られた喧嘩は必ず買ってるみたい」
「勝てたのかな」
「さて、どうだろ。勝ち負けは二の次よ。戦うことに意味があるの」
 叔母はゆっくりコーヒーを飲み干した。

 叔母はどんな人と結婚していたのだろう。
 そういえば聞いたことがなかった。
「そうねぇ…どんな人だったかしら」
 とぼけている風でもない。本当に忘れかけているのだ、この人は。
「叔母さんが三行半を突きつけたんでしょ?」
 そんな言葉、若者が使うかなと一頻り笑って
「残念、私がふられたのよ」
「どうして?」
「向こうに、好きな人ができたのよ」
 初めはびっくりして腹が立って悲しくて、どうしてやろうかと思った。その相手を憎んで憎んで憎み殺してやろうと、思ったところで足が止まっちゃったの。
 私、醜い。私、しんどい。
 醜くなるのもしんどいのも嫌。だったらこんな喧嘩、降りてしまえ。
 …さっさと逃げ出したわ。亭主なんてくれてやる、と思ったの。
「…楽になった?」
「そうね…。足掻いたって、人の心はどうにもならないもの。あれで良かったんだと思うよ。
 でもね、あの時以来、逃げ癖がついちゃった」
 叔母は皿に残った生クリームを指で拭い、ギンの鼻先に持って行った。ギンは匂いを嗅ぐと、ピンク色の小さな舌を出して叔母の指を舐めた。
「怪我しても醜態さらしても勝っても負けても、戦うべき時って確かにあると思う」
 叔母はテーブルに肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せた。
 カーテンを閉めていない窓は、部屋の中を鏡のように映し出した。叔母の背中と私とギンが映っている。窓の鏡の中で、ギンと私は一瞬だけ視線を合わせた。

「東京で遊ぶ時は、あなたのアパートに泊めてね」
 翌朝、叔母は浮き浮きと私を送り出した。あの分だと、しょっちゅう押しかけてきそうだ。来客用の布団を用意しておかなくては。
 餞別だと渡されたのは小さな口紅。透明な赤色だ。
 電車を待つホームで携帯電話を取り出し、彼のメールアドレスを確認する。
 今日は無理かも。明日もどうだろう。
 でも、東京に着いたら、一番先に、彼にメールしてみよう。



〜桃始笑(もも はじめて さく)〜




 大学生の頃、SF小説家のレイ・ブラッドベリに夢中になりました。「たんぽぽのお酒」を読んだときのキラキラした気持ちは、でも、大人になって再読したときにはすっかり薄れてしまっていて…。
 なんなのでしょうね、感受性が錆びてしまったのか、旬が過ぎてしまったのか。
 作り話の中で男の子が読んでいたのは、レイ・ブラッドベリの短編集ではなかったかな、と想像しています。

 さて、「桃始笑」。文字通り、桃の花が咲く頃ということです。
 海の旬のものは、ホタルイカ、ニシンなどなど。
 山の旬は、ゼンマイ、ワラビなど。
 桃と言えば桃の節句。雛祭りですね。
 私の住む辺りでは月遅れの節句なので、お雛さまは4月までゆっくり飾っておきます。嫁にも行かず、ずっと親の許でぐうたらしている身としては、お雛さまの顔を正視できないような気持ちでおりますです…。


 次回は「菜虫化蝶」、3月16日に更新予定です。

第八候 桃始笑_b0314743_01100507.jpg


by bowww | 2014-03-11 01:18 | 七十二候


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