【前回からの続きです…】 グラス二杯飲んだところで、そろそろボンヤリしてきた。立ち上がるのが億劫になる。 「それが今のところのあなたの限界。よく覚えておきなさい」 叔母はそう言ってグラスを片付け、コーヒーをいれた。小さいけれど、甘みも苦みもズシンと効かせたチョコレートケーキを取り出し、ゆるく泡立てた生クリームを添えてくれた。こんな時は手早い。 暫く、最近読んだ本や好きな映画の話など、とりとめなく話した。 今日は同級生たちとの約束があったのだと言うと、「あら、邪魔しちゃったわね」と片頬だけで笑った。 「なんとなく苦手なの。一人ひとりと会うのは楽しいんだけど…。大勢になると疲れちゃうし。卒業式終わってから、もう何度も遊んでるし…」 「気になってた彼は来なかったんでしょ」 図星だ。 同じクラスの彼は、気が付くといつも、教室の隅で本を読んでいた。付き合いが悪いわけではないらしい。仲の良い友人数人とよく笑い合っていた。それでも彼の名前を聞くと、目を伏せてページを繰る姿が思い浮かぶ。 一度だけ、何気ないふうを装って何を読んでいるのか訊ねてみた。「ん?」と本の背表紙を掲げて見せて、「わりと面白いんだよ」と笑った。 叔母の部屋で同じ本を見つけて、貸してほしいと頼むと、「あなたにしては珍しいジャンルね。誰に教わった?」と追求が始まり、つい白状させられてしまったのだ。 好きとかじゃなくて、ただちょっと気になって…本もたくさん読んでいるみたいだし…。もう少しだけ話をしてみたい…ぐらいの気持ち…。 彼も希望の大学に合格して、一足早く東京に行ったそうだ。 「私なんかと話したって面白くないだろうし…」 東京には、可愛くて頭が良くて面白い子がたくさんいるだろうし…。 「『私なんか』は、最近のあなたの口癖ね」 叔母はケーキを大きく切り分けて口に運ぶ。 ベランダで猫の鳴き声がした。ギンが「中に入れろ」と呼んでいるらしい。 叔母が窓を開けるとスルリと入ってきて、叔母の隣の椅子に飛び乗った。毛がところどころ抜けて、左の前脚には黒くなった血が滲んでいた。 「ギン、さっき公園で喧嘩してたよ」 私がそう言うと、ギンはちらっとこちらを見た。「余計なことを言うな」ということだろうか。 「あら、じゃあそれで怪我したのね。見せてごらん」 叔母に前脚を捉えられ、迷惑そうに一声鳴いた。 「骨は折れてないわね。名誉の負傷だ。舐めておけば治る」。そう言って叔母はギンを解放した。ギンは言葉が分かったかのように傷口を丹念に舐め始めた。 「ギンは強いのよ。こう見えて『喧嘩上等』なの。売られた喧嘩は必ず買ってるみたい」 「勝てたのかな」 「さて、どうだろ。勝ち負けは二の次よ。戦うことに意味があるの」 叔母はゆっくりコーヒーを飲み干した。 叔母はどんな人と結婚していたのだろう。 そういえば聞いたことがなかった。 「そうねぇ…どんな人だったかしら」 とぼけている風でもない。本当に忘れかけているのだ、この人は。 「叔母さんが三行半を突きつけたんでしょ?」 そんな言葉、若者が使うかなと一頻り笑って 「残念、私がふられたのよ」 「どうして?」 「向こうに、好きな人ができたのよ」 初めはびっくりして腹が立って悲しくて、どうしてやろうかと思った。その相手を憎んで憎んで憎み殺してやろうと、思ったところで足が止まっちゃったの。 私、醜い。私、しんどい。 醜くなるのもしんどいのも嫌。だったらこんな喧嘩、降りてしまえ。 …さっさと逃げ出したわ。亭主なんてくれてやる、と思ったの。 「…楽になった?」 「そうね…。足掻いたって、人の心はどうにもならないもの。あれで良かったんだと思うよ。 でもね、あの時以来、逃げ癖がついちゃった」 叔母は皿に残った生クリームを指で拭い、ギンの鼻先に持って行った。ギンは匂いを嗅ぐと、ピンク色の小さな舌を出して叔母の指を舐めた。 「怪我しても醜態さらしても勝っても負けても、戦うべき時って確かにあると思う」 叔母はテーブルに肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せた。 カーテンを閉めていない窓は、部屋の中を鏡のように映し出した。叔母の背中と私とギンが映っている。窓の鏡の中で、ギンと私は一瞬だけ視線を合わせた。 「東京で遊ぶ時は、あなたのアパートに泊めてね」 翌朝、叔母は浮き浮きと私を送り出した。あの分だと、しょっちゅう押しかけてきそうだ。来客用の布団を用意しておかなくては。 餞別だと渡されたのは小さな口紅。透明な赤色だ。 電車を待つホームで携帯電話を取り出し、彼のメールアドレスを確認する。 今日は無理かも。明日もどうだろう。 でも、東京に着いたら、一番先に、彼にメールしてみよう。 〜桃始笑(もも はじめて さく)〜 大学生の頃、SF小説家のレイ・ブラッドベリに夢中になりました。「たんぽぽのお酒」を読んだときのキラキラした気持ちは、でも、大人になって再読したときにはすっかり薄れてしまっていて…。 なんなのでしょうね、感受性が錆びてしまったのか、旬が過ぎてしまったのか。 作り話の中で男の子が読んでいたのは、レイ・ブラッドベリの短編集ではなかったかな、と想像しています。 さて、「桃始笑」。文字通り、桃の花が咲く頃ということです。 海の旬のものは、ホタルイカ、ニシンなどなど。 山の旬は、ゼンマイ、ワラビなど。 桃と言えば桃の節句。雛祭りですね。 私の住む辺りでは月遅れの節句なので、お雛さまは4月までゆっくり飾っておきます。嫁にも行かず、ずっと親の許でぐうたらしている身としては、お雛さまの顔を正視できないような気持ちでおりますです…。 次回は「菜虫化蝶」、3月16日に更新予定です。
by bowww
| 2014-03-11 01:18
| 七十二候
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