群青カフェ〜雨水〜

 昼下がりにやってきたお客さんは、紺色のスーツに青いレジメンタルのネクタイ、その上に黒いダウンジャケットを羽織っている。
 いかにもスーツを着慣れていない様子から、就職活動中の学生だろうかと見当をつける。
 壁に向かって設えてあるカウンター席に座った。
 注文を取りに行くと、人懐こい笑顔で「ブレンドを。ホットで」と答えた。
 この街には大学が二つ、専門学校が三つある。
 学生が多い街だ。
 その割には、うちの店に来る若者は少ない。やっぱりチェーンのコーヒーショップの方が、気軽でいいのだろう。
 久しぶりに若い人が来てくれたことが嬉しくて、コーヒーを運んだついでに、
「雪、大丈夫でした?」と話しかけてみた。
 学生さんはちょっと驚いたような顔をしてから、
「東京から戻ってきたら、思っていたより積もっていたので驚きました。
 でも、電車が止まらなくて良かった」
と笑った。
 もう少し話したそうな雰囲気だったけれど、次のお客さんたちが賑やかに入ってきて、会話はそこで終わった。
 学生さんが呼び水になったように、今度は若い女子三人組だ。
 セピア色の景色に、小さなブーケが放り込まれた感じ。
「今日は若いお客さんが多いですね。一気に華やぐ」
 常連の一人・酒井さんが、カウンターの向こうから声を掛けてきた。
 酒井さんは本を読んだり書き物をしたりと、いつも物静かに過ごすお客さんだ。
 よく見ればすっと鼻筋が通っていて、若かりし頃は細面の文学青年といった風情だったのではないかと思う。
 たとえ頭髪がやや人工的であっても、知的な雰囲気は損なわれていない。
「珍しいですよね。
 さっき、小田さんと坂口さんに、うちの店は地味なんだとご指摘いただきまして…。
 だから若い子たち、あまり来てくれないんですかねぇ」
「いやいや、私たちはみんな、この店と綾ちゃんのファンですよ」
 ファンの年齢層が問題なのだ…。
 酒井さんは広げていた本をぱたんと閉じた。
「ところであの彼、前にも来てましたね。二、三回、見かけた気がします」
「そう…ですか?」
 私は人の顔を覚えるのが大の苦手だ。
 接客業としていかがなものかと思うが、一度会ったぐらいではまず覚えない。
 会社勤めの頃もよく失敗した。初対面だと思って自己紹介をしたら、実は以前にも会ったことがある仕事相手で、気まずい思いをしたことも一度や二度ではない。
 世の中の全ての人が、名札を提げていてくれたらいいのにと思う。
「去年の夏休みの頃だったんじゃないかな。
 お客さん多くて、綾ちゃん大忙しだったから気がつかなかったかも知れないですね」
 酒井さんによると、学生さんはフラッと一人でやって来て、今日と同じ席に座っていたらしい。
「その時、なんだか萎れた様子だったから、ちょっと気になって…」
 それとなく壁際のカウンター席を窺う。
 学生さんはノートを広げて、なにやら熱心にペンを走らせている。
 あ、落書き帳。
 そうだ、思い出した。確かに彼は、以前もあそこで落書き帳を広げていた。

 開店して間もないある日、真新しい分厚いノートをが一冊、テーブルの上に置かれていた。
 忘れ物かと手に取ってみると、表紙に小さく「落書き帳・ご自由にお使いください」とある。
 めくって一ページに、几帳面な字で、「旅の途中に寄りました。美味しい珈琲。ご馳走さまでした」というメッセージと日付が書き込まれていた。
 …これまた懐かしい小道具が…。
 一昔前の喫茶店やペンションなんかは、お客さんが気ままな呟きを書きつけるノートを置いていたものだ。
 『大好きなカレと来ました。また一緒に来ようね』とか、『思いついて一人旅。素敵な場所を見つけました』とか。
 今だったら、さらっとSNSに投稿するような言葉を書き込んだのだと思う。
 誰もがスマホを持ち歩く時代に、アナログなノートなんて使ってもらえないだろうなと思いつつ、せっかく置いていってくれた誰かの好意は嬉しくて、そのまま置くことにした。
 案の定、落書き帳に気づくお客さんは少ない。三年近く経つのに、まだ初代のノートのままだ。
 学生さんはそのノートに、何か書き込んでいるらしい。

「こんにちは。今日は賑やかでいいわね」
 私が「いらっしゃいませ」を言うより早く、酒井さんがパッと立ち上がった。
 やってきたのは河瀬さん。ミントグリーンのマフラーに、綺麗なシルバーヘアが映える。
「酒井君、いちいち起立しなくていいのよ。
 それじゃああなた、立たされ坊主ですよ」
 楽しそうに笑う河瀬さんは、酒井さんの中学校のときの担任で、今は俳句の先生だという。
 酒井さんは河瀬さんの隣に、お行儀よく着席した。
 小柄で、いつもニコニコと穏やかな笑みを絶やさない河瀬さんだが、怒るととても怖かったそうだ。
「句会でも、笑顔で辛辣な評をくれるからね。気が抜けないんです」と、こぼしながらも、酒井さんは河瀬さんが来るのを心待ちにしているのだと思う。
 河瀬さんは紅茶派だ。
 温めたティーポットに、ダージリンの茶葉を入れる。
 沸騰したお湯を注ぐと、茶葉がゆっくり広がって華やかな香りが立つ。
 いつもはストレートで召し上がるけれど、今日はミルクを多めに用意しておこうか。
「あの、すみません」
 振り向くと、学生さんが落書き帳を手に立っている。
「あの…僕、この人にお礼を言いたいんです。どうすればいいでしょう」
 彼が指し示す先には、『自分の価値を決めるのは自分』と書かれてあった。


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暦通りに雨降りの「雨水」。
雪が雨へと変わる頃、ですが、今季は本当に雪が少ない冬でした。
ただ、この季節の雨は、雪よりも寒々しく感じますね。
気温が低くても、お日さまの光溢れる日の方が春を感じられます。


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綾ちゃんと同じように、私も人の顔を覚えるのが本当に不得手なのです。
先日、飲みにいったお店でばったり、高校の同窓生に会いました。
同じ部活(というより、同好会)だったので、付き合いもそれなりにあった人です。
なのに、初めは誰だか分からなくて、思いっきり失礼をしてしまった。。
よく見れば、高校生の頃と変わらない知的で垢抜けた美人さんなのに。
全世界の人が、名札をぶら下げていてほしい…。
 

 


 
 

 

 

# by bowww | 2019-02-19 16:06 | 作り話・群青カフェ | Comments(0)