本の話(雨水)

 本はきっと、ある程度の群になると、彼らだけで自由に増殖を始めるのだと思う。
 本棚いっぱいに詰め込んで、溢れて、床に置き、ボックスに入れ、クローゼットの下半分を占拠したところで、ついに妻から雷が落ちた。
「今度の週末に片付けなければ、全部、私が捨てる。一冊残らず、全部」
 息子がこの春、大学生になる。一人暮らしを始める。
 部屋が一つ空くわけだから、とりあえずそこに仮置きさせてもらえば…。
 私の企みに、妻はぴしゃりと先手を打った。
「太一の部屋は物置じゃありませんからね」。
 普段は穏やかな妻だが、こうと決めたら絶対に退かない。私がやらなければ、本気で捨てるつもりだ。
 渋々、貴重な休日を本の整理に費やすことに決めた。

 週末は穏やかに晴れた。
「駅の近くにさ、ちょっと洒落たカフェができてたよ」
 うまいこと一緒の散歩に持ち込んで、本の片付けを後回しにできないものかと画策してみる。
「あらそう、ちょうど良かった。友達との待ち合わせ、そこにしてみるわ」
「出掛けるの?」
「ええ。あなたが本の片付けに集中できるようにね」
 朝食後、妻は手早く身支度をして、「頑張ってね」と笑顔で出掛けて行った。
 仕方がない。
 私は、自分の書斎としている三畳ばかりの部屋に入ってため息をついた。
 確かにこれ以上本が増えれば、床が抜けてしまう危険性もある。
 せめてクローゼットの中と、床ににょきにょきと林立する本の山(少しずつ高くなる)を片付ければ、妻の態度も少しは軟化するだろう。
 どこから手をつければ…と思案していると、後ろの廊下を太一がのっそり通る。
「お前も出掛けるのか?」
 アアだかウウだか、返事だか唸り声だかを残して、息子は行ってしまった。
 私の背を越したのは高校一年生の頃だったか。
 ひょろっとした背中を見送り、再びため息をついた。

 太一が中学二年生のとき、「いじめられているのかも…」と妻に打ち明けられた。
 落ち着いたふりをして、本人に確認したのか、怪我をさせられたり物を取られたりしているのかなど問いただした。
「聞いてないわよ。まだ私の勘だけだから」
「なぁんだ…」という言葉は、辛うじて飲み込んだ。
 確証もないのに騒いではいけない。一人息子のせいか、妻は太一のこととなるとどうしても過敏になりがちだ。
 とはいうものの、母親の勘を見くびってもいけない。
「ちょっと話してみてよ」
 男同士の方がいいだろうと言うのだが、太一は反抗期ど真ん中で、私と面と向かって話すことなどほとんどなかったし、私の方もどう切り出していいか分からない。
 そうだ、こういう時にぴったりの本を渡してやったらどうだろう。
 思春期なら、やっぱり太宰か。…いや、「生まれてすみません」は困る。
 梶井基次郎の「檸檬」で、青春の鬱屈を爆発させるとか。…いや、鬱屈前提はおかしいか。
 虎になった李徴の独白に共感するかも。…いや、中島敦の文章は堅過ぎるか。
 いやいやいや、どれも教科書で習うようなものばかりだ、そんな本を渡しても説教くさくなるだけだ。
 詩人のエッセイ?哲学者の対談集?冒険家のインタビュー?
 どんな本なら太一の心に響くだろう。
 迷いに迷って、ある夜、
「…おい、太一。俺の本棚の本、好きに読んでいいからな」
 とだけ言ってみた。
 太一はチラッとこちらを見て、自分の部屋に引っ込んだ。
「いじめ、私の気のせいだったみたい。太一も元気になったわ」
 取り残された私に、妻はあっけらかんと告げた。

 床に積んでいた本の八割は、処分することに決めて束ねた。
 少し先が見えてきたことに気を良くし、本棚を久しぶりにゆっくりと眺めてみる。
 ふと、昔集めた池波正太郎の「鬼平犯科帳」シリーズの十三巻だけ、背表紙が新しいことに気がついた。
 シリーズものは、あまり日を置かず一気に揃えないと気が済まない質だ。
 訝しく思って十三巻を引き抜いてみる。
 やはり表紙のデザインも活字の組み方も、ほかの巻とは違う。
 首を傾げながらページをペラペラめくっていると、紙切れが一枚、滑り落ちた。
『ごめん、コーヒーこぼして汚したから、新しい本で弁償します』
 と、幼稚な字で書かれていた。
「あいつ、鬼平なんか読んでたのか…。渋過ぎるだろ」
 いつか太一と、本を肴に酒が飲めるといいと思う。


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亡くなった祖父の蔵書は、ほとんど処分しました。
大型の美術書は、「こういう本とか、文学全集や百科事典とかは、どこのご家庭でも持て余すんですよね」と、うちに来てくれた古書店の店主が苦笑いしながら引き取っていきました。
ごめんね、じいちゃん。
せめてもと、夏目漱石の「夢十夜」や谷崎潤一郎の「刺青」などの文庫本は、私の本棚に残っています。
本は、勝手に増殖していくものだと思います。


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陽射しが少しずつ力強さを取り戻し、気がつけば日が長くなりました。
今朝は氷点下8℃を下回りましたが、どうやらこれで寒さは緩むようです。
今年も引っ張り出されたお雛様、お顔を拝見するのも申し訳ない気分です。
お詫びに室咲きの桜の枝を飾りました。
ソメイヨシノの咲く春が待ち遠しいですね。





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# by bowww | 2018-02-19 19:01 | 作り話 | Comments(0)