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仰ぎ癖(啓蟄)

 できたばかりの老人福祉センターは、陽射しがたっぷり入る明るい雰囲気の建物だった。
 昼間のこの時間帯は、デイサービスを利用する比較的元気なお年寄りが多い。
 スタッフにも余裕があるようで、こちらの問いかけにも快く応じてもらえた。
 地元の市役所に勤めて十年、昨年から市の広報作りを担当している。
 市からのお知らせや市議会の議題、市が主催したイベントなどを数ページの冊子にまとめて、二ヶ月に一度発行する。
 新しい施設を紹介するコーナーで、こちらのセンターを取り上げることになった。
「できれば利用者さんのお話も伺いたいのですが、可能でしょうか?」
 一通り施設の説明を受けた後、ベテランといった風情の女性スタッフに訊ねてみた。
「それなら、斉木さんがいいかな」
 彼女は、近くを通りかかった男性スタッフを呼び止める。
「斉木さんなら、庭にいらっしゃいましたよ」
「そう、ありがと」
 中庭が見える窓際へ案内された。
 焦げ茶色のカーディガンに紺色のジャージのパンツを履いた男性が、木の下に佇んでいる。
「あちらが斉木さん。今日は体調が良さそうだから、きっとお話できると思いますよ。
 元々、学校の先生だったせいか、しっかりしたおじいさんなの」
 昼食の用意があるからと足早に去っていく女性に頭を下げて、再び庭に目を遣る。
 斉木さんは左足が不自由らしい。杖で半身を支えている。
 もつれる足がもどかしいのか、右足をせかせかと動かし右腕を大きく振ってバランスをとっている。
「斉木先生…」
 あのせっかちな動き方は、中学生時代に毎日見ていた。

 学校に行くのが嫌いだった。
 私は成績こそ良かったものの、引っ込み思案でクラスになかなか馴染まなかった。
 いじめられていたわけではないが、女子特有のグループごっこが苦手だった。
 担任だった斉木先生は五十代で、熱心な教師として保護者や同僚からの信頼が厚かった。
 確かに、斉木先生は熱心だった。
 クラスは皆、互いに助け合い切磋琢磨し団結しなければならない。
 落ちこぼれは出さない、決して見捨てない。
 もちろん、校則は厳守。
 そんな先生だったから、私のような生徒は見逃せなかったのだろう。
 何かと声を掛けてくれたのだが、私は先生が目の前に立つ度に目を伏せた。
 二年生の春、突然、クラス委員長に指名された。
 必死で無理だと訴えたのだが、
「河瀬ならできる。自分を変えるチャンスだ」と取り合ってもらえなかった。
 結果、惨敗。
 私のか細い声は、ワイワイと騒がしい教室の中では掻き消えてしまう。
 おどおどとした態度が苛立たしいのか、クラスメイトたちは途端に意地悪になった。
 誰も私の話を聞いてくれない。助けてくれない。
 夏頃には、クラスはすっかりまとまりを欠いてしまった。
 私は学校を休みがちになった。
 家庭訪問に来た斉木先生は無理しなくていいと言いながら、去り際に、
「河瀬はもっと仲間を信じないと。いつまでもこのままだぞ」という言葉を残していった。

 庭に出て、斉木さんの側に行く。
「失礼します、市の職員の者ですが、少しだけお話よろしいですか?」
 振り向いた斉木さんの顔には、特に何の表情も浮かばない。
「こちらのセンターの印象を教えていただけますか?市の広報で紹介させて頂くんです」
 ああ…と唸るように返事をする。
「みんな優しくて明るい。良くしてもらってありがたいよ」
 少し言葉が不明瞭で聴き取りづらい。病気の影響だろうか。
「ありがとうございます。お名前とお年はお聞きしてもよろしいでしょうか」
 斉木さんは右手を大きく横に振った。
「いいいい。名前はいい」
 ぐらりと体が傾ぐ。
 とっさに支えた。
 斉木さんは思っていたよりずっと小柄だった。
 すぐに体勢を立て直すと、斉木さんは頭の上の梢を指差した。
「もうすぐ咲く」
 見れば紅梅の蕾が膨らみ始めている。
 堂々と枝を張った古木にあらためて見入った。
「立派な木ですね」
 斉木さんは、うんうんと満足そうに頷いた。

 出来上がった広報を持って、お礼を兼ねてセンターを再訪した。
 先日お世話になったスタッフに声を掛けると、彼女は窓際で私を手招いた。
「ほら、梅が咲いたんですよ」
 春の光を受けて紅梅が満開になっていた。
「斉木さんが、『河瀬さんが来たら教えてやってくれ』と言ってたの」
「…私の名前…」
 きっと私のことは忘れたか思い出せないかだろうと、先日はあえて名乗らなかった。
 斉木さんも何も聞かなかったのに。
「ええ、ちゃんと『河瀬さん』て仰ってましたよ」
 聞けばあの梅の木は、斉木さんが寄贈したものだという。
 自宅で育てた木だが、手入れも行き届かなくなったから、と。
「移したばかりのせいか、なかなか蕾が開かなくてね、今年は咲かないかしらと皆で話していたら、斉木さんが『時機がくれば咲く。焦らなくていいんだ』って」 
 
 梅の木の下に立ち、梢を見上げる。
 柔らかな香りに包まれる。
 斉木先生は、梅がほころぶ前に亡くなったと聞いた。


   青天に紅梅晩年の仰ぎ癖(ぐせ)  西東三鬼


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仰ぎ見るのは、紅梅ではないのですが…。

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by bowww | 2017-03-05 11:13 | 身辺雑記 | Comments(0)

啓蟄その2

 中学生の頃の加治君はサッカー部のエースで、校内だけではなく他校の女子生徒からも人気があったらしい。
 いつも友達に囲まれていた。
 千春は吹奏楽部だった。
 中学校に入ってクラリネットを始めた千春より、楽器の上手な生徒はたくさんいたから、コンテストはいつも補欠要員だった。クラスでも部活でも目立つタイプの生徒ではなかった千春にとって、加治君は遠巻きに眺めるだけの存在だった。
 二年生の秋の試合で、加治君は膝に怪我をした。キャプテンになったばかりだったのに、四ヶ月間の安静を言い渡された。
 日が短くなった秋の終わり、部活の練習を終えて校舎を出た千春は、グラウンドの端に佇む加治君を見つけた。
 仲間の練習をじっと眺めている。
(やっぱり悔しいんだろうな)と思った瞬間、加治君が大きな声で指示を飛ばした。
 部員たちの動きが素早くなる。
 それを見届けると、加治君は後輩たちと一緒にボールを磨き始めた。
 加治君を中心に、笑い声が上がった。
 千春は斜め後ろから、加治君の笑顔を見ていた。

「…中嶋さん?」
 スーパーの果物売り場で、明菜の好きなイチゴを買おうかと思案していたら、不意に旧姓で呼びかけられた。
 千春は驚いて振り向いた。
「加治君!」
「やっぱりそうだ」
 買い物かごをぶら下げたスーツ姿の加治君が立っていた。
「久しぶりだね、卒業以来かな」
「…そうだね、私は同級会行かなかったから。加治君は最近、中学校の時の誰かと連絡取り合ってるの?」
 実際に会ってしまえば、やはり緊張よりも懐かしさが先に立つ。互いの近況報告や同級生たちの噂話でひとしきり盛り上がった。
 二人の横を、カートに目一杯品物を積んだ中年女性が通り過ぎた。
 かごから突き出た大根が、積み上げてあるオレンジを掠めた。
「あ!」
 千春は咄嗟に両手を差し伸べて、崩れてきたオレンジをキャッチした。
 もちろんすべてを受け止められるわけもなく、オレンジが幾つも床に転がった。
 見ていた店員が慌てて駆け寄ってくる。
 当の中年女性は、知らん顔で向こうに行ってしまった。
「まったく!」
 千春は店員と一緒にオレンジを拾い集めた。加治君もかがみ込んで拾ってくれる。
「中嶋さん、変わらないなぁ」
 クスクス笑いながら、加治君が言う。
「なにが?」
「どういうわけだか、他人の後始末を任されちゃうんだよね。で、いっつもプンプンしながらきちんと片付けるの」
 確かに、中学生の頃から学級委員を押し付けられたり、会社に入ってからも手が掛かる新人の指導を任されたり…。
「貧乏くじを引く運命なんだと思う。お節介おばさんだしね」
 苦笑しながら立ち上がると、加治君は真面目な顔で千春を見つめた。
「俺、中嶋さんにお礼を言いたかったんだ」
 千春はきょとんと加治君の顔を見返した。
「二年生の秋にさ…」
 千春の鞄の中で、携帯電話が鳴った。
 会社からだった。
「ごめん、加治君。ちょっと電話…」
「ごめんごめん、引き止めちゃったね。じゃ、また」
 加治君は手を振って、その場を離れた。
 千春は同僚からの簡単な確認の電話に答えてから加治君の姿を探したが、賑わう店内ですっかり見失ってしまった。
 「お礼」が気になるものの、今更追いかけて聞くのも大袈裟な気がして諦めた。
 自分のことを覚えていてくれただけで、十分だと思った。

 切り花のコーナーに、明菜が描くようなピンクのチューリップが束になって売られている。
 千春は一束手に取って、レジに向かった。




啓蟄3月5日〜3月19日頃
初候・蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)次候・桃始笑(ももはじめてさく)末候・菜虫化蝶(なむしちょうとなる)


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急に暖かくなって、体がついていきません。
そしてカラカラに乾燥して、耳鼻咽喉がヒリつきます。
植物も虫も人間も、そろそろ温かい雨が欲しいですね。

春が遅い山国でも、梅が綻び、福寿草が金色の花を咲かせています。
庭先(…というほどの庭ではありません。家の周囲の僅かな空間)に、昨年、父が沈丁花を植えてくれました。
冬の最中に蕾をたくさんつけるので、「おいおい、気が早いよ。まだ春は遠いよ」と心配していたのですが、案の定、霜焼けで茶色く縮こまっています。
咲いてくれると嬉しいけれど…。
梅の香りも恋しいです。
庭に植えて大きくなっても手入れが大変だからと諦めていますが、盆栽仕立ての梅でも手に入れようかしら。

作り話は、3月20日「春分」に更新します。


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by bowww | 2016-03-06 22:09 | 作り話 | Comments(2)

啓蟄その1

 慌ただしく仕事を片付けて、千春はスーパーに駆け込んだ。
 買う物を頭の中でリストアップして、最短で済むように売り場を回るルートを組み立てる。
 バナナにレタス、ジャガイモ、魚売り場は素通り、今日は鶏肉が安いからもも肉を買って、おっといけない、シチューのルー。牛のすね肉が二割引だ、買っておいて週末に煮込もう。あとは牛乳と納豆。
 総菜コーナーで、少し後ろめたい気持ちでひじきの煮物と唐揚げをカートに入れた。
 子供が小さいうちは手作りのものを食べさせたかったが、仕事をしているとなかなか適わない。夫の直也が、「無理しなくていいよ。やれる範囲でいこう」と言ってくれたから、出来合いの総菜がテーブルに並ぶことも増えた。
 レジに並びながら、(週末はちゃんと作るから)と心の中で家族に謝った。
 夕方のレジは混んでいる。千春の前には五、六人並んでいた。
 見るともなくほかの客の買い物かごを眺める。あの家は今夜は鍋かな。こちらは肉じゃが?牛丼? 千春と同じぐらいの年頃の女性客のかごに唐揚げを見つけて、仲間にエールを送る気持ちになる。
 二人前の男性客のかごには、焼き鳥とビール、スナック菓子が入っていた。
 一人暮らしかな。今夜はこれだけで済ますのかな。
 背中を見れば、きちんとクリーニングしてあるらしいダークグレーのスーツを着ている。
 列が進み、男性の順番が来た。
 横顔を見て、懐かしい名前が不意に浮かんだ。
「…加治君」
 中学校の同級生の加治君だ。明るくてスポーツ万能の人気者だった。左頬に、幼い頃にやんちゃをして作ったという小さな傷跡がある。
 切れ長で涼しげだった目元には小さな皺ができていた。
 千春は声を掛けようとして思いとどまった。
 仕事帰りで髪はボサボサだし、メイクもほとんど落ちている。
 先日、娘の明菜に「ママはなんでおしゃれしないの?きれいなママがいい」と無邪気に言われたことも思い出した。
 俯き加減で買い物かごをレジの台に置き、精算を待っている間に、加治君は千春に気がつく様子もなく出て行った。
 後ろ姿を見送って、そっとため息をつく。

 結婚したことも、まして明菜を生んだことも、後悔したことなど一度もない。
 懸命に仕事をして、もしかしたらこのまま一人かも知れないと覚悟を決めた頃、直也と出会った。
 千春の考え方を尊重し、出産後に仕事へ復帰するときも全面的に応援してくれた。
 周りから羨ましがられるし、千春自身もとても恵まれていると感謝している。
 だが、以前と同じようには働けない。
 なりふり構わず働く同僚や、着実に成長している後輩たちを見ていると、限られた時間でしか働けない自分が歯がゆくなる。
 入社以来こつこつ築いてきたキャリアが、さらさらと手の平から零れていくような焦り。
 毎日、後ろ髪を引かれながら、保育所へ明菜を迎えに行くために職場を後にする。
「ママはおしゃれする元気残ってないよ」
 すっかり春の装いになった街のショーウィンドーを横目に、千春は小走りで保育所に向かう。

 スーパーに寄る日だけは、帰る前にメイクを簡単に直し、髪を整えるようになった。
 会社の女子トイレで鏡を覗き込み、淡いローズの口紅を引き直す。唇に色を乗せるだけで、疲れた顔が生気を取り戻す。
「誰に会うか分からないもの」
 自分の言い訳めいた独り言に苦笑が漏れる。
 あの日以来、加治君には会っていない。
 スーパーに行く度に、会えるかと微かに期待し、会えずにほんの少しだけがっかりし、同じだけ安心した。


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作り話、長くなりますので二回に分けて更新します。
取り急ぎ(最近、この台詞が多い。。)、前半部分を。
後半部分は明日のうちに。 
 
写真は何年も前に撮ったテントウムシです。
日付を見ると3月16日。
今年は急に暖かくなったから、虫たちも大忙しでしょうね。

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by bowww | 2016-03-05 10:13 | 作り話 | Comments(0)

第九候 菜虫化蝶

 一軒目の居酒屋は、歓送迎会の時期だけあってかなり騒がしかった。
 飲みに行こうと誘うと、西村は素直についてきた。聞き出したいことがあったのだが、これだけ騒がしいとゆっくり話もできない。
 腹ごしらえが出来た頃に、智則は西村を「もう一軒、付き合えよ」とバーに誘った。
「先輩ほどは飲めませんよ」と笑いながら、今度もあっさり同意した。

 西村は智則の職場の後輩で入社三年目になる。
 部署の中で年齢が近いこともあり、智則が世話係として面倒をみてきた。
 とはいえ、西村が智則の手を煩わせることはほとんどなかった。時間に正確で仕事の飲み込みが早い。ほどよく社交的で誰とでもうまく付き合えた。小さなミスで叱られても拗ねたり投げ出したりせず、同じ過ちは二度と繰り返さなかった。
 地味だが着実に成績を上げてくる営業担当者に育っていた。
 その西村の様子が、この数ヶ月おかしい。
 上の空でケアレスミスが続く。
 社内の休憩スペースや公園のベンチで、時には職場のデスクでも、目を閉じたままじっと動かずにいる姿が度々目撃されて、同僚たちの間でも話題になっていた。
 鬱病ではないかと心配になった智則も、幾度となく声を掛けたり、ランチに誘ったりしてみたが、受け答えはいつも通り快活だし、食欲が落ちている様子ではなかった。
 そこで久しぶりに、飲みに誘ったのだった。

 バーも混んではいたが、運良くカウンターの隅の席をもらえた。
 腰を落ち着ける前にと智則がトイレに立ち、席に戻ると西村が目を閉じて座っていた。
「西村、眠いのか?」
 西村はすぐに目を開けて「いいえ、ぜんぜん」と笑った。
 程なく、智則の前にはウイスキーの入ったショットグラスが、西村の前にはオレンジのスライスが添えられたカクテルが置かれた。
 智則はグラスを口に運んで一息ついてから、最近の西村の様子について皆が心配していると切り出した。
「皆さんにご迷惑かけて、本当に申し訳ないです。特に先輩にはフォローしてもらっちゃって…」
「そんなことは構わないんだが…。俺にできることがあれば、力になるぞ?できないことはできないけどな」
 西村は小さく笑うと、しばらく自分のグラスを眺めていた。そして
「…蝶がいるんです」と呟いた。
「チョウ?虫の?どこに?」
「…目の中、なのかな」
 ふと気が付くと、視界のごくごく僅かな一点が黒く欠けていた。何かを見つめようと意識を凝らすと、黒い小さな粒が邪魔をする。
「飛蚊症か?」
「目医者にも真っ先にそう言われました。目玉の中の硝子体が濁って、黒いゴミみたいなものが見えるんだ、と。
 でも、何回検査をしても違うんです。
 気になり始めると気になって、それに少しずつ大きくなっている気がして、ちょっとまいったな、と思っていたら、羽化したんですよ」
「…羽化…?」
「夜、眠りに落ちる瞬間、いつもの黒い粒が弾けて、青…群青…いや瑠璃色っていうのかな、瑠璃色の蝶が羽ばたいたんです」
 西村はその光景を正確に描写しようとするためか、目を瞑っていた。
「視界いっぱいに瑠璃色が広がって、すぐに遠くへ、闇の中へと遠ざかっていくんです」
 そして、その「羽化」は周期的に繰り返されるのだという。
「だんだん慣れてはきたけれど、追わずにはいられないんですよね」
 西村の右手が宙を泳いだ。蝶の軌跡を辿るつもりなのか、指先が波を描くように動いた。
 智則はウイスキーを喉に流し込み、チェーサーの水をあおった。丸く削った氷がグラスの中で鳴った。
 その音で西村は我に返ったように目を開けて、智則の横顔を見た。そしてすぐに正面を向いた。
 智則は言葉を探していた。目医者以外の病院には行ったのか、カウンセリングを受けたらどうか、何か悩み事があるのではないか…。
「…俺も見てみたいな」
 智則は自分の言葉に呆気にとられた。
 西村も智則を見つめたまま、動きを止めた。
「…今、羽化するところです」
 西村は俯いて独り言のように呟き、次の瞬間にはいつもの笑顔を智則に向けた。
「じゃ、僕、終電そろそろなんでお先に失礼します。先輩も飲み過ぎないように気をつけてくださいよ」
 と言い残すと、さっさと席を立った。
 智則は引き止めるのも忘れ、曖昧な返事をして西村の背中を見送った。
 カウンターには、西村が飲み残したオレンジ色のカクテルがある。
 何気なく手を伸ばすと、初老のバーテンダーが控えめにそれを制した。
 怪訝に思った智則がバーテンダーの顔を見返すと、
「飲み残しの酒はおよしなさい。悪酔いしますよ」と静かに諭された。
 彼はグラスを白いリネンで拭って、智則に見せた。
 ラピスラズリを削ったような粉がついていた。雲母のかけらのようにきらきらと光る。子供のころ、蝶を捕まえると指にこんな粉がついたっけ。
「鱗粉ですね」
 バーテンダーはカクテルを片付けて、智則の前には氷水がたっぷり入ったグラスを置いた。
 智則の視界の隅を、瑠璃色の光が一瞬、横切った。



〜菜虫化蝶(なむし ちょうと なる)〜



作り話を書いていると、思いがけない方向に話が進んでいくことがあります。ほぉ、そういう結末ですか…と書いている本人が呆れてしまうような。
私、飛蚊症です。老化現象の一つだそうです。
とほほ。。。
そんなところから書き始めたのですが、こんな話になりました。

菜虫は青虫。蝶の幼虫がさなぎになって、蝶になる季節ということだそうです。
海の旬はアサリ、サヨリなど。3月は「貝のお正月」、一番美味しい季節だと聞いたことがあります。
山の旬はワラビやセリ。山菜の季節ということですね。

先日、一泊二日で東京に出掛け、4つの美術展を巡るという弾丸ツアーを決行しました。
・「ザ・ビューティフル 英国の唯美主義」(http://mimt.jp/beautiful/)
・「ラファエル前派展」(http://prb2014.jp/)
・「アンディ・ウォーホル展」(http://www.mori.art.museum/contents/andy_warhol/)
・「星を賣る店 クラフト・エヴィング商會のおかしな展覧会」(http://www.setabun.or.jp/exhibition/exhibition.html)
やはり、4つも回ればキャパオーバーではあります。。。
でも、貧乏性といいますか欲張りといいますか、とにかく「見たいものは無理してでも見る!」という気持ちで行ってきました。
お金はなかなか貯まらない(貯められない)けれど、せめて思い出や経験は蓄えておきたいなと思います。
おばあちゃんになった時、思い出すものが少しでも多ければ楽しいのではないかしら…と思いまして。

写真は六本木ヒルズ(初めて行きました)から見えた東京タワー。
イナカモノにとっては、きらびやかなものばかりです、花の東京。

次回は「雀始巣」、3月21日に更新予定です。
もう春分になりますね。いよいよ春本番!となっているでしょうか。


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by bowww | 2014-03-16 02:01 | 七十二候 | Comments(2)

第八候 桃始笑

【前回からの続きです…】

 グラス二杯飲んだところで、そろそろボンヤリしてきた。立ち上がるのが億劫になる。
「それが今のところのあなたの限界。よく覚えておきなさい」
 叔母はそう言ってグラスを片付け、コーヒーをいれた。小さいけれど、甘みも苦みもズシンと効かせたチョコレートケーキを取り出し、ゆるく泡立てた生クリームを添えてくれた。こんな時は手早い。
 暫く、最近読んだ本や好きな映画の話など、とりとめなく話した。
 今日は同級生たちとの約束があったのだと言うと、「あら、邪魔しちゃったわね」と片頬だけで笑った。
「なんとなく苦手なの。一人ひとりと会うのは楽しいんだけど…。大勢になると疲れちゃうし。卒業式終わってから、もう何度も遊んでるし…」
「気になってた彼は来なかったんでしょ」
 図星だ。
 同じクラスの彼は、気が付くといつも、教室の隅で本を読んでいた。付き合いが悪いわけではないらしい。仲の良い友人数人とよく笑い合っていた。それでも彼の名前を聞くと、目を伏せてページを繰る姿が思い浮かぶ。
 一度だけ、何気ないふうを装って何を読んでいるのか訊ねてみた。「ん?」と本の背表紙を掲げて見せて、「わりと面白いんだよ」と笑った。
 叔母の部屋で同じ本を見つけて、貸してほしいと頼むと、「あなたにしては珍しいジャンルね。誰に教わった?」と追求が始まり、つい白状させられてしまったのだ。
 好きとかじゃなくて、ただちょっと気になって…本もたくさん読んでいるみたいだし…。もう少しだけ話をしてみたい…ぐらいの気持ち…。
 彼も希望の大学に合格して、一足早く東京に行ったそうだ。
「私なんかと話したって面白くないだろうし…」
 東京には、可愛くて頭が良くて面白い子がたくさんいるだろうし…。
「『私なんか』は、最近のあなたの口癖ね」
 叔母はケーキを大きく切り分けて口に運ぶ。
 ベランダで猫の鳴き声がした。ギンが「中に入れろ」と呼んでいるらしい。
 叔母が窓を開けるとスルリと入ってきて、叔母の隣の椅子に飛び乗った。毛がところどころ抜けて、左の前脚には黒くなった血が滲んでいた。
「ギン、さっき公園で喧嘩してたよ」
 私がそう言うと、ギンはちらっとこちらを見た。「余計なことを言うな」ということだろうか。
「あら、じゃあそれで怪我したのね。見せてごらん」
 叔母に前脚を捉えられ、迷惑そうに一声鳴いた。
「骨は折れてないわね。名誉の負傷だ。舐めておけば治る」。そう言って叔母はギンを解放した。ギンは言葉が分かったかのように傷口を丹念に舐め始めた。
「ギンは強いのよ。こう見えて『喧嘩上等』なの。売られた喧嘩は必ず買ってるみたい」
「勝てたのかな」
「さて、どうだろ。勝ち負けは二の次よ。戦うことに意味があるの」
 叔母はゆっくりコーヒーを飲み干した。

 叔母はどんな人と結婚していたのだろう。
 そういえば聞いたことがなかった。
「そうねぇ…どんな人だったかしら」
 とぼけている風でもない。本当に忘れかけているのだ、この人は。
「叔母さんが三行半を突きつけたんでしょ?」
 そんな言葉、若者が使うかなと一頻り笑って
「残念、私がふられたのよ」
「どうして?」
「向こうに、好きな人ができたのよ」
 初めはびっくりして腹が立って悲しくて、どうしてやろうかと思った。その相手を憎んで憎んで憎み殺してやろうと、思ったところで足が止まっちゃったの。
 私、醜い。私、しんどい。
 醜くなるのもしんどいのも嫌。だったらこんな喧嘩、降りてしまえ。
 …さっさと逃げ出したわ。亭主なんてくれてやる、と思ったの。
「…楽になった?」
「そうね…。足掻いたって、人の心はどうにもならないもの。あれで良かったんだと思うよ。
 でもね、あの時以来、逃げ癖がついちゃった」
 叔母は皿に残った生クリームを指で拭い、ギンの鼻先に持って行った。ギンは匂いを嗅ぐと、ピンク色の小さな舌を出して叔母の指を舐めた。
「怪我しても醜態さらしても勝っても負けても、戦うべき時って確かにあると思う」
 叔母はテーブルに肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せた。
 カーテンを閉めていない窓は、部屋の中を鏡のように映し出した。叔母の背中と私とギンが映っている。窓の鏡の中で、ギンと私は一瞬だけ視線を合わせた。

「東京で遊ぶ時は、あなたのアパートに泊めてね」
 翌朝、叔母は浮き浮きと私を送り出した。あの分だと、しょっちゅう押しかけてきそうだ。来客用の布団を用意しておかなくては。
 餞別だと渡されたのは小さな口紅。透明な赤色だ。
 電車を待つホームで携帯電話を取り出し、彼のメールアドレスを確認する。
 今日は無理かも。明日もどうだろう。
 でも、東京に着いたら、一番先に、彼にメールしてみよう。



〜桃始笑(もも はじめて さく)〜




 大学生の頃、SF小説家のレイ・ブラッドベリに夢中になりました。「たんぽぽのお酒」を読んだときのキラキラした気持ちは、でも、大人になって再読したときにはすっかり薄れてしまっていて…。
 なんなのでしょうね、感受性が錆びてしまったのか、旬が過ぎてしまったのか。
 作り話の中で男の子が読んでいたのは、レイ・ブラッドベリの短編集ではなかったかな、と想像しています。

 さて、「桃始笑」。文字通り、桃の花が咲く頃ということです。
 海の旬のものは、ホタルイカ、ニシンなどなど。
 山の旬は、ゼンマイ、ワラビなど。
 桃と言えば桃の節句。雛祭りですね。
 私の住む辺りでは月遅れの節句なので、お雛さまは4月までゆっくり飾っておきます。嫁にも行かず、ずっと親の許でぐうたらしている身としては、お雛さまの顔を正視できないような気持ちでおりますです…。


 次回は「菜虫化蝶」、3月16日に更新予定です。

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by bowww | 2014-03-11 01:18 | 七十二候 | Comments(2)

第七候 蟄虫啓戸

 高校卒業と大学合格のお祝いをするから、次の週末、泊まりに来るようにと叔母から電話があった。相変わらずこちらの都合など聞きもしない。
 同級生たちと遊びに行く予定があったが、もともと気が乗らなかったのでそちらをキャンセルすることに決めた。
 叔母は一人暮らし。私が生まれた頃に離婚して、今は猫一匹と暮らしている。兄である私の父は「一度結婚しただけでも、あいつにしては上出来だよ」と諦めている。四人きょうだいの末っ子で兄三人。子供の頃からお姫さま気質。大人になっても変わらないと溜め息をつくのだが、結局は皆でよってたかって甘やかしたのだろうと私は思う。
 叔母が好物だという母特製のキッシュを持たされた。母は「羽目を外しすぎないように」と言い渡して私を送り出した。

 電車に乗って二十分。叔母のマンションは、私がついこの間まで通っていた高校の近くにある。同じ電車に三年間乗って学校に通った。車窓の見飽きた景色とももうすぐお別れだ。春からは東京の大学に通うため、一人暮らしを始める。
 駅から叔母の部屋に向かう途中、公園の桜の木の下で、銀色の猫と白黒ブチの猫が睨み合っていた。少し離れた場所に、小柄な三毛猫が毛繕いをしている。
 三角関係、ただいま修羅場、か。
 発情期の雌猫の鳴き声を思い出し、顔をしかめた。あの三毛猫も、妖怪じみた声で雄たちを呼んだのだろうか。
 ふと、銀色猫に見覚えがあることに気づいた。
 叔母が飼っているギンだ。
 シャム猫の血でも混ざっているのか、細身でしなやか、小顔の今風な美猫だ。「立ち居振る舞いに気品があるのよ」と叔母は自慢するが、猫のくせに甘えることもないギンは、私に取っては少々物足りない。
 いつも澄ましているギンが恋敵と決闘している。やや優勢かと見極めて、先を急いだ。真剣勝負に水を差してはいけない。

 叔母の家はいつも散らかっている。
 本やCDがあちらのテーブル、こちらの棚に積み重なっている。埃がたまっているところは見たことがないから、掃除はしてるらしい。
「わぁ! 義姉さんのキッシュ!」叔母は嬉しそうに受け取ると、私を部屋の中に招き入れる。テーブルには簡単なオードブルとワインの瓶、グラスが並び、隅には読みかけの本が伏せてあった。
 大学合格が決まったら乾杯しようと約束していたのだ。「未成年とはいえ、大学生になればコンパやら何やらで飲まされるのよ。アホな飲み方をしてしくじらないように、私の監督下で訓練していきなさい」と。
 広い窓から西日が射し込む。
 初めてのワインはイタリアの白。軽くて飲みやすい、のだそうだ。きりりと冷やしてあって喉越しがいい。母のキッシュにもよく合った。
「いけるかも…」と伝えると、叔母は「我が家は酒好きの血筋だからね」と笑った。

【続きます…】


〜蟄虫啓戸(すごもりむし とを ひらく)〜



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作り話、いつもより少し長くなりそうなので次回へ続きます。
二十四節気では啓蟄です。虫を始めとした生き物たちが、冬ごもりから這い出して活動をスタートさせる頃。
写真のように、川の流れがキラキラし始めると、春が来るぞとワクワクします。水温む春。風光る春。
…ま、この翌日には雪景色になったのですが。
虫たちもきっと、表に出たり引っ込んだりでしょうね。
海の旬のものは鰆(サワラ)、赤貝、ひじき。
山の旬は山葵などなど。
私の住む辺りは山葵の産地なのです。春先の山葵の花のおひたしは、風味が高く辛みが利いて絶品。日本酒の肴にはもってこいです。

春の季語に「猫の恋」があります。猫、とても飼いたいのですが、借家住まいのため叶いません。猫ブログなんかを覗かせてもらって我慢しています。
発情期は春と秋が多いとのことですが、実際は決まっていないようですね。あの特有の鳴き声がいきなり聞こえてくると、いつでも何回でもビックリしてしまいます。
春の季語になったのは、悩ましげな雰囲気が春の気怠い空気感に合っていたためでしょうか。

 戀猫の戀する猫で押し通す 永田耕衣


 次回は3月11日「桃始笑」に更新予定です。


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by bowww | 2014-03-06 06:30 | 七十二候 | Comments(0)