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群青カフェ〜立冬〜

 …センセイ、と、呼ばれた気がして目が覚めた。
 年寄りの朝が早いというのは、誰にでも当てはまるものではないと思っている。
 朝日の射し込み具合から、七時を回った頃かと見当をつけて、枕元に置いてあるスマホで時間を確認する。
 疾(と)うに八時を過ぎている。
「あらあら、日の出が遅くなったこと」
 ベッドの中で伸びをして、少しの間、真っ白な天井を見上げた。
 教師を定年退職するとあっという間に、宵っぱりの朝寝坊が習慣になった。
 長年、気ままな一人暮らしで、気に懸ける家族もいない。
 退職を機に親から引き継いだ古い家を処分し、荷物を片付け、ほとんど身一つで駅近くの分譲マンションに引っ越した。
 広くはないが機能的で、日当たりも風通しも良い居心地の好い部屋は、老後を過ごすには申し分ないと満足している。
 ただ、今でも、目覚めた直後に、「ここはどこだろう?」と戸惑うことがある。
 天井板に、見慣れた節穴がない。
 米の炊ける匂い、味噌汁の匂いがしない。
 父と母の声、弟の足音が聞こえない。
 清潔な朝の光だけがしんと満ちた部屋で、ゆっくりと「ああ、そうだそうだ」と思い出す。
 私はおばあさんだった。
 皺だらけの手の甲を眺め、白い天井を眺め、今日の日付を声に出して確認してみる。
「うん、今日も大丈夫」
 ちゃんと「今日」に戻ってこられました。
 ベッドから抜け出して、キッチンでお湯を沸かす。

 白湯を飲んで、蜂蜜を一匙舐めて、床に座って簡単なストレッチをする。
 寝ているだけで体が強張るようになるなんて、若い頃は思いもしなかった。
 肩甲骨の辺りを伸ばしながら、ふと、今朝見た夢を思い出す。
 思い出したというより、夢の欠けらが一瞬だけ、意識の表面に浮かんで消えたような頼りなさだ。
 幼い声を聞いた気がする。
 学校で働いていた頃の夢でも見ただろうか。
 定年まで勤めたものの、自分が教師に向いているとは最後まで思えなかった。
 「教え子たちは我が子も同然」と言ってのける同僚たちが羨ましかった。
 生徒たちは「預かりもの」だと思っていた。
 預かっている限りは自分の最善を尽くす。だが、教師にできることなぞ、たかが知れている。与えられた時間が過ぎれば、もう教師には何もできないし、すべきではない。
 子供たちが居るべき場所へ返すしかない。
 「これで正解なのか」と自問自答を繰り返すから、何年経っても教壇の上は居心地が悪かった。
「河瀬先生は、ちょっとビジネスライク過ぎませんかねぇ。もっと子供たちの心に寄り添うべきじゃないか、と。
 …まぁ、独身でお子さんもいない先生には、難しいですかね」
 そんな厭味を言われたのも、一度や二度ではない。
 同僚や上司、保護者から言われたこともある。
 悔しくて腹も立ったが、相手の言い分にも一理あると思っていた。
 私は教師として何か欠けていたのだろう。
「あいたたた…」
 床に胡座をかいたまま物思いに耽っていたら、膝が悲鳴を上げた。
 そろそろと伸ばして揉みほぐす。
 歳を取ると、一つ一つの動作に集中しないといけない。怪我の元になる。

 テーブルに新聞を広げて、ざっと目を通す。
 気になった言葉や事柄は、スマホで検索してメモを取る。
 ぼけ防止のようなものだ。
「…角田さん…」
 頭が動き出したせいか、それとも新聞のインクの匂いが刺激になったのか、夢で聞いた声の主を不意に思い出した。
 角田正子(しょうこ)さん。
 私が教師になって、初めて担任したクラスの子供だ。
 あの子の声じゃなかっただろうか。
 動き出した脳細胞が、もう一つの情報を引っ張り出して繋ぎ合わせる。
 昨日、喪中はがきが届いた。
 この歳になれば、喪中はがきも珍しくなくなる。そのうち、年賀状よりも多くなるだろう。
 ただ、「妻 正子が本年四月八日に六十三歳にて永眠しました」という文面に首を傾げた。
 差出人は「安岡義一」とある。
 「安岡正子さん」という女性が誰だったのか、どうしても思い出せずにいたのだ。
 角田正子さんが結婚して、安岡正子さんになったのではなかったか。
 ここ数年、義理で出していた年賀状はすっぱり切って、本当に親しい人たちとだけやり取りをしている。その中に正子さんは居なかったし、以前にも付き合いはほとんどなかった。
 今まですっかり忘れていたのに、勢いづいた脳細胞は色々な思い出を引きずり出してくる。
 華奢な角田さんの可愛らしい笑顔や、「センセイ、教えて!」という嬉しそうな声、人懐こくまとわりついていくる小さな両手。
 いつも冷たく荒れていた手。
 私はその手を、離してしまった。
 のろのろと新聞を畳み、はがきをもう一度、手に取った。


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# by bowww | 2019-11-08 22:29 | 作り話・群青カフェ