ひざまづく(寒露その2)

 足までの長い緑色のワンピースに黒天鵞絨のカーディガン、エメラルドグリーンのストールを羽織った老女が、「お嬢様」であることにまず驚く。そして、部屋の有様にも言葉を失う。
「ボランティアの方?ご苦労さま。まずは声を聞かせていただける?」
 動揺を押し隠し、ゆっくりと自己紹介する。
 田上お嬢様はほとんど目が見えないのだという。
「あら、良いお声。私が好きなお声だわ。
 森田さん、でしたっけ?あなた、フランス語は?」
「…えっと、全く習ったことがなくて…」
「それは残念ね、久しぶりに原書で読んでみたい本があったのだけれど…」
 そっと本棚に目を走らせる。確かに何冊か洋書も混じっているようだ。背表紙は灼けて、書名の箔押しはほとんど剥げ落ちているが。
 なんなら、断ってもらっても構わない。
 この不思議な部屋に通い続ける自信がない。
「まあ良いでしょう、耳に障らない声の方って、なかなか見つからないものね。
 サカキ、こちらの方にお願いしましょう」
 どうやら合格してしまった。
 高くも低くもない、のっぺりとした声だと自分では思っているのだが、お嬢様のお気には召したらしい。
 以来、週に一度、田上邸に通うことになった。

 読んでも読んでも、声が吸い取られて消えていく。
 お嬢様の部屋の音響効果は、限りなく無に等しい。ガラクタたちが音を端から吸収してしまうから、知らず知らずのうちに、声を張り上げてしまう。
「森田さん、少しボリュームを下げてくださるかしら」
 お嬢様は、ちょっとだけ右手を上げて見せる。
 私は慌てて詫びて、自分の声の行方に無頓着でいようと心がける。
 そうしているうちに、自分もこのままこの部屋の一部になってしまう錯覚に捕われる。
 仄暗い部屋の隅で埃が光にきらめく様を、もう何年も何十年も眺め続けているような…。
 ドアをノックする音で我に返る。
「お嬢様、森田様、お茶の時間でございます」
 サカキさんが淹れてくれる紅茶はとびきり美味しい。
 紅茶の香りと温かい湯気に、ほっと一息つく。
 お茶の時間は、サカキさんがお嬢様につきっきりでお世話をする。
 紅茶が熱すぎないか確認し、カップをそっと手渡す。頃合いを見て、ミルクを足したり、焼き菓子を取り分けたりと、目が不自由なお嬢様が不便を感じないように働き続ける。
 動きの一つ一つに無駄がない上にこまやかだ。
「サカキさんは、ずっとお嬢様とご一緒だったんですか」
 一度、帰りがけの玄関で聞いてみたことがある。
「…いえ、先代にお世話になった後、一度は田上家を出ました。お嬢様がお一人になられたと聞いて戻ってまいりました」
 お嬢様とサカキさんはきっと年齢も近い。
 何かロマンスがあったのではないかという想像も楽しく、いつしか田上邸に通うのが嫌ではなくなっていた。


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もう一回だけ、続きます…。

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# by bowww | 2017-10-09 07:05 | 作り話 | Comments(0)