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春分その2

【前回からの続きです…】


 声を掛けようか迷っているうちに、彼女の姿を見失った。
 こんな時間に、いい年をした男が焼き鳥とビールぶら下げている図は、あまり格好いいものじゃないし…。
「格好つけるトシでも立場でもないよな」
 自分の苦笑いが、懐かしさをざらりと引っ掻いた。

「先輩?…加治先輩じゃないですか!」
 翌日、会社近くのコンビニでいきなり声を掛けられた。
「あれ?大岡?」
 人懐こい丸顔は中学生の頃のままだ。サッカー部の仲間の名前と顔は一瞬で思い出せる。
「うっわぁ!やっぱ先輩だ!お久しぶりです、いつ戻ったんですか?」
 一つ下の大岡は、試合ではあまり活躍しなかったもののチームのムードメーカーで、面倒見が良く人望もあった。
 つなぎの作業着の胸に「大岡工務店」と刺繍されている。そういえば大岡の親父さんは、評判のいい大工さんだった。
「年明けてすぐ。支社がこっちにできてさ。
大岡は家継いだんだな」
「継いだは継いだんですけど、まだまだ親父が達者なもんだから、俺は使いっ走り社長ですよ」
「偉いよな、俺なんて島流しみたいなもんだぜ」
「なに仕出かしたんですか、先輩」
 大岡は日に焼けた顔をクシャクシャにして笑って言った。
「んじゃ、ここから一発逆転狙うわけですね」
「無茶言うなよ。俺なんてもうおっさんなんだから」
 店を出て、灰皿があるコーナーに移動した。
 大岡はポケットから煙草を取り出し、うまそうに一服吸った。
「見てください、この腹。俺の方が先輩よりもおっさんおっさんしてますよ」
 見事に丸い腹をぽんぽん叩くと、大岡はふと真顔に戻った。
「俺、何か迷ったら『加治先輩ならどうするだろう』って考えるんです。
 先輩はサッカーうまいし、モテるし、頭も良いし、俺らの憧れだったんですよ。
 でも俺、一番すげぇなって思ったのは、先輩が怪我した後です。
 ちゃんと誰よりも早く来て、一人で筋トレとか済ませて、皆の練習の世話してて…。
 すげぇなぁ、て」
 何と答えればいいのか戸惑っているうちに、大岡は
「…なぁんて話を、今度飲みながらしましょうよ。
 あいつらにも声掛けますから連絡先教えてください」
 照れ隠しのように煙草をもみ消すと、携帯電話を取り出した。


 朝早い人気(ひとけ)が少ない学校が好きだった。
 サッカー部の部室で着替えていると、いつもクラリネットの音が聞こえてきた。
 部室の真上が音楽室だったから、吹奏楽部の練習はよく聞こえた。
 俺と同じように、一人で朝練をするのが好きな奴がいるんだなと思っていた。
 初めのうちは調子っ外れな音は出るし、つっかえつっかえだし、素人でもヘタクソなのが分かった。
 それが毎朝毎朝繰り返され、徐々に滑らかな旋律になり、生き生きとした音楽になっていく。
 誰が吹いているのだろう。
 ある朝、そっと音楽室を覗いてみた。
 小柄な女子が一人、窓に向かってクラリネットを吹いている。
 うちのクラスの学級委員だ。
 曲が途切れたところで声を掛けようかと思ったが、楽譜を覗き込む横顔があまりに真剣だったから黙ってその場を離れた。
 試合中に怪我をしたのは、そのすぐ後だった。
 キャプテンになったばかりの俺は、調子に乗ったのか張り切り過ぎたのか、しつこいディフェンスにカッとなって無理にゴール前へ抜けようとした。そこで相手の選手と激しく接触して転んだらしい。気がつけば膝が動かず、痛みでただただ呻いていた。
 靭帯を傷めて全治四ヶ月。
 キャプテンになったのに、何をやっているのかと自分に腹が立った。
 夏の大会までに回復できるのか、気ばかり焦った。
 
 うちの中学校の吹奏楽部はなかなかレベルが高く、コンクールでも活躍していた。部員も多い。
「千春、今度の地区予選には出られるんでしょ?」
 松葉杖を突いて出歩くのも嫌だったから、昼休みは教室で昼寝(のフリ)をしていた。
 机に突っ伏したまま、女子たちのお喋りを聞くともなく聞いていた。
「…ううん、補欠」
「マジ?あんなに練習してるのに?今度のコンクールが最後のチャンスでしょ?」
「今年の一年生、うまい子いっぱいいるんだもん。仕方がないよ」
 ため息混じりの笑い声が耳に残った。

(もう朝練の必要もないだろうな)
 俺も彼女も。
 そう思いながらも朝早くに部室に足を運び、そうはいってもすることもなく、ぼんやりと椅子に座り込んだ。
 いつものクラリネットの音色が聞こえてくる。何度も聞いているから覚えてしまって、鼻歌で同じメロディーを辿る。
 いつもは失敗する場所も、今朝は音がひっくり返ることもなく心地好く流れていく。
 上達したよな。
「……あれ?」 
 彼女、コンクールに出られないのに?今朝も練習?
 音楽室の小さな後ろ姿を思い浮かべた。
 俺はゆっくり立ち上がって深呼吸する。
 そう、まだまだやれることは沢山ある。


 仕事帰り、いつものスーパーに寄る。
 夕飯の支度を急ぐ女性たちで混雑している。
 真奈美もこうやって買い物をしていたのだろうかとふと思う。
 俺は真奈美の日常をほとんど知らない。いや、知ろうとしていなかっただけだ。
 まず話そう。
 結果はどうであれ、とにかくとことん話をしよう。
 仕事も空回りだろうがなんだろうが、やるべきことはまだ沢山ある。
 そして、大岡たちとバカみたいに飲もう。
 そう決めると、気持ちが軽くなった。
 たまにはサラダでも作ろうと野菜売り場に向かう。
 果物コーナーで、あの後ろ姿を見つけた。
 イチゴを前に首を傾げている。
「…中嶋さん?」
 考えるより先に、声が出ていた。



春分=3月20日〜4月4日頃
初候・雀始巣(すずめはじめてすくう)次候・桜始開(さくらはじめてひらく)末候・雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)
 

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汗ばむほどの陽気になったかと思えば、ホタホタと雪が降ったり北風が吹き荒れたり。
春と冬の間を行きつ戻りつしながら、時間は進んでいきます。
今年は桜の開花が早いようですね。
蕾がプゥッと膨らんできました。
桜狂ひの季節が始まります。
ソワソワする!


次回は4月5日「清明」に更新します。


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by bowww | 2016-03-21 21:37 | 作り話 | Comments(0)

春分その1

「加治君、ちょっと昼飯付き合わないか?」
 島村部長に声を掛けられたときから、どんな話になるかは見当がついていた。
 彼とプライベートな付き合いなど一切ない。むしろ避けられ続けている。
 部長がよく使うという蕎麦屋に入ると、慣れた風な中年の女性店員が出て来て、半分個室の席に案内された。
「ここ美味いんだよ。天ざるでいいだろ?」
「いえ、私は蕎麦だけで」
「遠慮するなよ、今なら小柱のかき揚げや菜の花や…」
「申し訳ないです、夕べからこっぴどく腹壊してまして。天ぷらなんて食べたら、トイレに駆け込んだまま、仕事にならないかもしれません」
 愛想笑いを浮かべた先ほどの店員が注文を取りに来る。
 部長は眉を寄せたまま、「いつもの」と答える。
 俺は「あったかいのください。そうだなぁ、たぬき蕎麦…なんてないか、鴨南蛮じゃ油っけが強いし、かけ蕎麦ってあります?…あははは、ないですよね。じゃ、卵でも乗せてください。葱たっぷりで」と、適当な返事をする。
 置かれた厚手のおしぼりが温かい。
 手をゴシゴシ拭いて、ついでに顔も拭いてやろうかと思ったが、さすがに我慢する。
「加治君は入社何年目だっけ?」
「今度の春で十七年になりますかね」
「そうかそうか、もう中堅だよな。社外でも評判いいぞ。この前もクライアントが、『加治君が担当なら安心だ』と言ってたしな」
 島村部長は饒舌だ。それも、気まずいときほどよく喋る。
 時間が惜しい。
「…で、人事の話ですよね?」
 部長が言葉に詰まったところに、タイミングよく蕎麦が来る。
 暫く黙って、二人でズルズルと蕎麦を手繰った。
 出汁の風味がくどい。温かいつゆにしたせいか、魚臭さが鼻につく。
「加治君は長野出身だったよな?」
 天ぷらの油がテラリと光る唇で、部長が再び喋り出す。
「はい」
「そろそろどうだ、地元で落ち着くという考えはないか?」
 長野に支社が置かれる話は聞いていた。確かに俺の実家がある街だ。
「長野支社は甲信越地方の中核だから、役員連中も力が入っててな。
 立ち上げには、ぜひとも優秀な人材を送り込みたいということで、君に白羽の矢が立ったんだ」
 矢を突き立てたのはあなたでしょ?
「本社としても君を手放すのは惜しいんだが、加治君なら地の利はあるし、何よりその実力だ。ぜひ、支社を引っ張っていってもらいたい」
 俺はできるだけゆっくりと箸を置いた。
 部長の顔をしげしげと眺める。
「なるほど。よく分かりました」
 たっぷり眺めて、相手の目が泳ぎ始めた頃にそれだけ答えた。
「そ、そうか!了解してくれるか。私も君を推薦した甲斐があるというものだ」
 ほら、もうぼろが出た。あなたが俺を追い払いたいだけでしょ?
 店を出ても(当然、勘定は部長が済ませた)、部長はさらに上機嫌で喋り続ける。
「長野といえば蕎麦だよな。私は蕎麦に目がなくてね。加治君も向こうに行ったら、美味い店に連れて行ってくれよ」
「喜んで。
 まずはなんといっても、駅そば!美味いっすよねぇ。電車を待ってる間に、あの出汁の匂いがしてくるとたまらないんですよ。高校生の頃、部活帰りによく食いました。小遣いに余裕ある時は天ぷら追加したりしてね。使ってる油が古いせいか、ちょっと油臭いんだけど、こっちは腹が減ってるから立ったままガツガツと。…ま、今でも似たようなもんですけどね。
 一ざるン千円だなんていう気取った蕎麦は、リタイアしてから酒でもゆるゆる飲みつつ食いたいっすよね」
 再び嫌な顔をした部長に、「ではこのまま、お客さんの所に行きますんで」と背中を向けた。

 よくある社内の派閥争いだ。
 俺は鹿島部長に可愛がられていた。
 出世したいとは思っていなかったが、思うように働くには、ある程度「上」に居ないと自由が利かない。自分なりに努力して、成績を上げていた。
 鹿島部長とは馬が合ったから、端から見れば「鹿島派」だったのだろう。
 鹿島部長と島村部長は仲が悪い。俺も、島村部長は好きではなかった。
 一年ほど前、経営者が交代する時期に役員たちの対立が顕著になり、それに伴って管理職たちの派閥争いも活発になった。
 そして残念ながら、鹿島派は負けた。
 だから今年の春の人事異動は、鹿島派の「残党」を処分する絶好の機会なのだろう。
「それにしたって、左遷どころか島流しだろ」
 覚悟はしていたが、まさかここまでの扱いを受けるとは思わなかった。
 相当、嫌われていたらしい。
「俺だって加治の上司だったら、扱いにくくて嫌だと思うもん」
「そうそう。しれっとした顔で上が嫌がるようなこと言うしさ、そのくせ営業成績はいいからさ。
 そんな部下なんて使いにくくて…」
 噂が広まると、同期の奴らがこっそり送別会を開いてくれた。
 元々、口が悪い奴らだったが、酔うとなおさら遠慮がない。
「ここ一年、俺はちゃんと大人しくしてたぞ」
「それが怖いんだってば。島ちゃん、気が小さいからね、いつ加治の反撃食らうか気が気じゃなかったんじゃない?」
「理不尽だなぁ。目が合う度にニコニコ笑顔を返してやってたのに」
「怖い怖い、加治の愛想笑いが一番怖いって」
 どっと笑いが起こる。
 湿気っぽくならないように気遣ってくれているのが、ありがたいし情けなかった。
 騒ぎに紛れて、一番仲がいい西野がそっと訊いてきた。
「かみさんは?一緒に行くのか?」
「…分からん。連絡はしておいたけど」
 妻の真奈美とは半年前から別居をしている。
「仲直りのいいきっかけになるんじゃないか?」
「夫の左遷がか?」
「パートナーのピンチを共に乗り越えれば、絆は深まるんだぞ」
「お前に言われたくないな」
 西野は二年前に離婚している。
「俺だから言うの。
 家に味方が居れば、心強いもんだからさ」
 我が家は結局、敵同士になっちゃったけどなと、西野はあっけらかんと笑った。

 地元では両親が健在だが、ひとまずはアパートに落ち着いた。
 互いの生活のリズムが全然違っているし、真奈美が来るとしたらいきなり同居も気詰まりだろう。
「来るとしたら、か…」
 このままではきっと離婚することになる。
 真奈美は何が気に食わなくて家を出たのか、それさえもよく分からない。
 決定的な喧嘩をしたわけでもない、いつの間にかすれ違っていたということだろうか。
 だが、今の俺には真奈美と話し合う時間も気持ちのゆとりもなかった。
 支社の立ち上げは思った以上に手こずった。
 いくら出身地だとはいえ、離れて二十年近く経つ。その間に街はだいぶ変わった。
 小中学校の頃の友人たちとはほとんど連絡を取っていないから、ツテなどないも同然だった。
 加えて、支社に「流されて」きた同僚たちはやはり曲者揃いで、協調性がある人間などほとんど居なかった。
 僅か三十人足らずの職場で、簡単な連絡事項一つ、まともに回らない。
 支社長の小田さんは定年間近で、俺と同じく実家がこちらにあるという。
「俺は両親の面倒みなきゃいけなかったからな。渡りに船さ。かみさん?ついて来るわけないだろ。子供たちと東京に残るってさ。まぁ独身気分でのんびり余生を過ごすさ」
 そちらは「余生」だろうが、こっちは生活がかかっている。
 きりきりと働くほど周りとは噛み合ず、顧客の開拓もまったくはかどらず、焦りばかりが募る。

 一日が終わると、椅子から立ち上がれないぐらい体が重い。
 こうやって老け込んでいくのだろうか。
 無力感に身を委ねるのが、いっそ快感になってきた。
 帰り道、スーパーに寄って夕飯の総菜を見繕う。
 かごにはビールと焼き鳥。我ながら見すぼらしい。
 たまには野菜を取らないとまずいだろう。
 野菜売り場に戻ろうとしたとき、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
 小柄で華奢な背中に、無造作に束ねた髪が揺れている。
 てきぱきとカートに品物を入れていくけれど、決して雑には扱わない。
 名前は咄嗟に出てこないが、中学校の同級生の女の子だ。
 鉢合わせしそうになって、慌てて棚の後ろに隠れた。名前も思い出せないうちに顔を合わせても、挨拶に困る。
 用もないのに、調味料のコーナーで探し物をしているふりをして、目の前を通り過ぎる彼女をちらっと見た。
 やっぱりそうだ、もの静かなしっかり者で、学級委員をしていて…。
「…名前、何だったけ」
 ちはる。
 そうだ、千春、だ。友達にそう呼ばれてた。
 自分でも思いがけないほど、懐かしい気持ちがこみ上げた。


【続きます…】



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長過ぎますね。。
とりあえず、取り急ぎの「その1」更新です。
写真は薔薇の新芽。
  一旦は赤になる気で芽吹きをり 後藤比奈夫

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by bowww | 2016-03-20 22:17 | 作り話 | Comments(0)

啓蟄その2

 中学生の頃の加治君はサッカー部のエースで、校内だけではなく他校の女子生徒からも人気があったらしい。
 いつも友達に囲まれていた。
 千春は吹奏楽部だった。
 中学校に入ってクラリネットを始めた千春より、楽器の上手な生徒はたくさんいたから、コンテストはいつも補欠要員だった。クラスでも部活でも目立つタイプの生徒ではなかった千春にとって、加治君は遠巻きに眺めるだけの存在だった。
 二年生の秋の試合で、加治君は膝に怪我をした。キャプテンになったばかりだったのに、四ヶ月間の安静を言い渡された。
 日が短くなった秋の終わり、部活の練習を終えて校舎を出た千春は、グラウンドの端に佇む加治君を見つけた。
 仲間の練習をじっと眺めている。
(やっぱり悔しいんだろうな)と思った瞬間、加治君が大きな声で指示を飛ばした。
 部員たちの動きが素早くなる。
 それを見届けると、加治君は後輩たちと一緒にボールを磨き始めた。
 加治君を中心に、笑い声が上がった。
 千春は斜め後ろから、加治君の笑顔を見ていた。

「…中嶋さん?」
 スーパーの果物売り場で、明菜の好きなイチゴを買おうかと思案していたら、不意に旧姓で呼びかけられた。
 千春は驚いて振り向いた。
「加治君!」
「やっぱりそうだ」
 買い物かごをぶら下げたスーツ姿の加治君が立っていた。
「久しぶりだね、卒業以来かな」
「…そうだね、私は同級会行かなかったから。加治君は最近、中学校の時の誰かと連絡取り合ってるの?」
 実際に会ってしまえば、やはり緊張よりも懐かしさが先に立つ。互いの近況報告や同級生たちの噂話でひとしきり盛り上がった。
 二人の横を、カートに目一杯品物を積んだ中年女性が通り過ぎた。
 かごから突き出た大根が、積み上げてあるオレンジを掠めた。
「あ!」
 千春は咄嗟に両手を差し伸べて、崩れてきたオレンジをキャッチした。
 もちろんすべてを受け止められるわけもなく、オレンジが幾つも床に転がった。
 見ていた店員が慌てて駆け寄ってくる。
 当の中年女性は、知らん顔で向こうに行ってしまった。
「まったく!」
 千春は店員と一緒にオレンジを拾い集めた。加治君もかがみ込んで拾ってくれる。
「中嶋さん、変わらないなぁ」
 クスクス笑いながら、加治君が言う。
「なにが?」
「どういうわけだか、他人の後始末を任されちゃうんだよね。で、いっつもプンプンしながらきちんと片付けるの」
 確かに、中学生の頃から学級委員を押し付けられたり、会社に入ってからも手が掛かる新人の指導を任されたり…。
「貧乏くじを引く運命なんだと思う。お節介おばさんだしね」
 苦笑しながら立ち上がると、加治君は真面目な顔で千春を見つめた。
「俺、中嶋さんにお礼を言いたかったんだ」
 千春はきょとんと加治君の顔を見返した。
「二年生の秋にさ…」
 千春の鞄の中で、携帯電話が鳴った。
 会社からだった。
「ごめん、加治君。ちょっと電話…」
「ごめんごめん、引き止めちゃったね。じゃ、また」
 加治君は手を振って、その場を離れた。
 千春は同僚からの簡単な確認の電話に答えてから加治君の姿を探したが、賑わう店内ですっかり見失ってしまった。
 「お礼」が気になるものの、今更追いかけて聞くのも大袈裟な気がして諦めた。
 自分のことを覚えていてくれただけで、十分だと思った。

 切り花のコーナーに、明菜が描くようなピンクのチューリップが束になって売られている。
 千春は一束手に取って、レジに向かった。




啓蟄3月5日〜3月19日頃
初候・蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)次候・桃始笑(ももはじめてさく)末候・菜虫化蝶(なむしちょうとなる)


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急に暖かくなって、体がついていきません。
そしてカラカラに乾燥して、耳鼻咽喉がヒリつきます。
植物も虫も人間も、そろそろ温かい雨が欲しいですね。

春が遅い山国でも、梅が綻び、福寿草が金色の花を咲かせています。
庭先(…というほどの庭ではありません。家の周囲の僅かな空間)に、昨年、父が沈丁花を植えてくれました。
冬の最中に蕾をたくさんつけるので、「おいおい、気が早いよ。まだ春は遠いよ」と心配していたのですが、案の定、霜焼けで茶色く縮こまっています。
咲いてくれると嬉しいけれど…。
梅の香りも恋しいです。
庭に植えて大きくなっても手入れが大変だからと諦めていますが、盆栽仕立ての梅でも手に入れようかしら。

作り話は、3月20日「春分」に更新します。


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by bowww | 2016-03-06 22:09 | 作り話 | Comments(2)

啓蟄その1

 慌ただしく仕事を片付けて、千春はスーパーに駆け込んだ。
 買う物を頭の中でリストアップして、最短で済むように売り場を回るルートを組み立てる。
 バナナにレタス、ジャガイモ、魚売り場は素通り、今日は鶏肉が安いからもも肉を買って、おっといけない、シチューのルー。牛のすね肉が二割引だ、買っておいて週末に煮込もう。あとは牛乳と納豆。
 総菜コーナーで、少し後ろめたい気持ちでひじきの煮物と唐揚げをカートに入れた。
 子供が小さいうちは手作りのものを食べさせたかったが、仕事をしているとなかなか適わない。夫の直也が、「無理しなくていいよ。やれる範囲でいこう」と言ってくれたから、出来合いの総菜がテーブルに並ぶことも増えた。
 レジに並びながら、(週末はちゃんと作るから)と心の中で家族に謝った。
 夕方のレジは混んでいる。千春の前には五、六人並んでいた。
 見るともなくほかの客の買い物かごを眺める。あの家は今夜は鍋かな。こちらは肉じゃが?牛丼? 千春と同じぐらいの年頃の女性客のかごに唐揚げを見つけて、仲間にエールを送る気持ちになる。
 二人前の男性客のかごには、焼き鳥とビール、スナック菓子が入っていた。
 一人暮らしかな。今夜はこれだけで済ますのかな。
 背中を見れば、きちんとクリーニングしてあるらしいダークグレーのスーツを着ている。
 列が進み、男性の順番が来た。
 横顔を見て、懐かしい名前が不意に浮かんだ。
「…加治君」
 中学校の同級生の加治君だ。明るくてスポーツ万能の人気者だった。左頬に、幼い頃にやんちゃをして作ったという小さな傷跡がある。
 切れ長で涼しげだった目元には小さな皺ができていた。
 千春は声を掛けようとして思いとどまった。
 仕事帰りで髪はボサボサだし、メイクもほとんど落ちている。
 先日、娘の明菜に「ママはなんでおしゃれしないの?きれいなママがいい」と無邪気に言われたことも思い出した。
 俯き加減で買い物かごをレジの台に置き、精算を待っている間に、加治君は千春に気がつく様子もなく出て行った。
 後ろ姿を見送って、そっとため息をつく。

 結婚したことも、まして明菜を生んだことも、後悔したことなど一度もない。
 懸命に仕事をして、もしかしたらこのまま一人かも知れないと覚悟を決めた頃、直也と出会った。
 千春の考え方を尊重し、出産後に仕事へ復帰するときも全面的に応援してくれた。
 周りから羨ましがられるし、千春自身もとても恵まれていると感謝している。
 だが、以前と同じようには働けない。
 なりふり構わず働く同僚や、着実に成長している後輩たちを見ていると、限られた時間でしか働けない自分が歯がゆくなる。
 入社以来こつこつ築いてきたキャリアが、さらさらと手の平から零れていくような焦り。
 毎日、後ろ髪を引かれながら、保育所へ明菜を迎えに行くために職場を後にする。
「ママはおしゃれする元気残ってないよ」
 すっかり春の装いになった街のショーウィンドーを横目に、千春は小走りで保育所に向かう。

 スーパーに寄る日だけは、帰る前にメイクを簡単に直し、髪を整えるようになった。
 会社の女子トイレで鏡を覗き込み、淡いローズの口紅を引き直す。唇に色を乗せるだけで、疲れた顔が生気を取り戻す。
「誰に会うか分からないもの」
 自分の言い訳めいた独り言に苦笑が漏れる。
 あの日以来、加治君には会っていない。
 スーパーに行く度に、会えるかと微かに期待し、会えずにほんの少しだけがっかりし、同じだけ安心した。


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作り話、長くなりますので二回に分けて更新します。
取り急ぎ(最近、この台詞が多い。。)、前半部分を。
後半部分は明日のうちに。 
 
写真は何年も前に撮ったテントウムシです。
日付を見ると3月16日。
今年は急に暖かくなったから、虫たちも大忙しでしょうね。

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by bowww | 2016-03-05 10:13 | 作り話 | Comments(0)