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大暑

 葉月は海に行った覚えがありません。
 潮干狩りの遠足や友達家族との海水浴、海を臨むテーマパークへの修学旅行でさえ、父さんが決して許してくれなかったのです。
 葉月と父さんは、海の匂いも届かない山に囲まれた街で暮らしています。
 いくら海のない街だとはいえ、葉月の友人たちは小学生にもなれば海に連れて行ってもらいました。
 でも、どんなに「行きたい」とお願いしても駄々をこねても、父さんは折れませんでした。
 普段は葉月に甘すぎるぐらい優しい父さんなのに。


  車の免許が取れたから、必死でアルバイトで稼いで、おんぼろの青い車を買ったんだ。
  学生の僕にとっては大き過ぎる買い物だけど、彼女とドライブに行くのが夢だったからね。
  美人で優しくて賢い彼女に、僕は夢中だった。
  こんな素敵な女の子が、僕のことを好きだと言ってくれるなんて夢みたいだと思ってた。
  夏休みに入ってすぐのデートの日、僕は彼女に内緒にしたまま車で迎えに行った。
  彼女は車を見ると、パッと笑ったんだ。
  彼女が笑うと、金色の粉が舞い散るみたいなんだよ。
  「これで何処にでも行けるね」
  「うん、何処にでも!君の行きたい所に行こう。海?山?」
  彼女は一瞬だけ、黙り込んだ。そして、「じゃあ、湖を見に行きたい」と言った。
  免許取りたてだからね、それに大切な彼女を乗せているから、僕は慎重に慎重に運転した。
  湖は青く澄んでいて、木陰には涼しい風が吹いていて、彼女が作ってくれたサンドイッチを食べたんだ。


 父さんの思い出話は、葉月にとってはお伽噺と同じでした。
 顔も覚えていない母さんは、だからまるでお伽の国のお姫さまのようでした。
 父さんはとても幸せそうに、嬉しそうに母さんの話を葉月に語って聞かせたのです。


  夏休みが終わる頃には僕はすっかり運転が上手くなっていた。
  だから、もっと遠出をしたくなって、彼女を海に誘ったんだ。
  「日に焼けるのが嫌なの」「潮の匂い、好きじゃない」「泳ぐのが苦手」…。
  彼女はあれこれ理由をつけてなかなか賛成してくれなかったんだ。
  でも僕は、彼女がとても上手に泳ぐことを知っていたし、多少は日焼けした方が健康的でいいと思ってた。
  何よりさ、やっぱり水着姿の彼女を見たいじゃないか。
  パラソルを用意する、シャワーがある海岸を探す、波打ち際で遊ぶだけでも楽しいよ。
  僕がくどくどと口説くと、彼女は観念したように目を伏せた。
  「…夢を見るの。子供の頃から」
  真っ青な海。真っ白な砂浜。弧を描く水平線。吸い込まれそうな青空。
  気持ちよく海岸を歩いていると、波は穏やかなままなのに、遠い遠い水平線が静かに盛り上がる。
  ああ、逃げなくては…と思った時には、足が砂に埋まって動けない。
  海は音もなくぐんぐん膨らんで、彼女を飲み込む…。
  「だから、海が怖いのよ」
  絶対に僕が守るから。
  僕は、ここぞとばかりに張り切った。
  夢に怯える彼女が愛おしくて仕方がなかった。
  彼女はそんな僕を見て笑った。
  「じゃ、行ってみようかな、海」
  あの時の彼女の笑顔は諦めだったのかも知れない。
  今から思えばね。
  実際に海に行ってみれば、彼女は子供のようにはしゃいだ。
  じっとなんてしていなかった。何時間でも泳ぎたがった。
  初めのうちこそ僕も付き合っけれど、じきに疲れて浜辺に寝転がって、彼女が泳ぐのを眺めていた。
  

 白い水着を着た母さんが、キラキラ光る波を潜り、思いがけないほど遠くから顔を出して父さんに手を振ります。
 何回も何回も同じ話を聞いたので、葉月はまるで自分が見ていたかのように母さんの姿を思い浮かべることができました。
 二人は結局、夏が終わるまで何度も海へ行きました。母さんがせがんだのです。


  秋風が吹いて遊泳禁止の看板が立つと、彼女は切なそうにため息をついた。
  翌年は、まだ水が冷たいうちから海に通った。
  そのうち、彼女一人でも行ってしまうようになった。
  何度も喧嘩したなぁ。僕は海に焼きもちを焼いたんだ。
  それでも僕は彼女が大好きだったし、彼女の気持ちも変わらなかったから、卒業してすぐに結婚した。
  海辺の街に住んだ。
  海が見える場所なら、彼女も落ち着いてくれるだろうと思ったからね。
  思った通り、彼女は喜んでくれた。どんどんきれいになって、僕にもとても優しかった。
  やがてお前が生まれた。
  幸せだったよ、とても。
  そんな幸せの絶頂で、彼女は言ったんだ。
  「私、帰らなくちゃ」て。


 何処へ?
 海へ。
 父さんは、必死で母さんを引き止めたけれど、「ああ、やっぱりな」とも思ったそうです。
 生まれたばかりの葉月を父さんに託し、結局、母さんは海へ帰ってしまいました。
 でも、葉月もお父さんも愛しているから、夏の満月の夜には浜辺に戻って来るのだと父さんは言います。
 毎年、父さんは一人で母さんに会いに行きます。
 そして、「母さんからだよ」と、歪だけれど月のように輝く真珠を一粒、お土産に持ち帰るのです。
 真珠は今では十七粒になりました。

「お前まで海に帰ってしまったら、父さん一人ぼっちになってしまうだろ?」
 だから、葉月を海に近づけないのだと言います。
「たぶんね、気の毒だけど、あなたのお母さんは海で亡くなったんだと思うのよ」
 父さんのお姉さんは、一度だけ母さんと会ったことがあると言います。
 父さんは家族に何の相談もなく結婚したので、両親、つまり葉月のおじいちゃんやおばあちゃんは暫く、二人のことを許さなかったそうです。
 唯一、連絡を取っていたのがお姉さんでした。
「あの子、昔から夢見がちなところがあったから。奥さんが死んでしまったことを受け入れられなくてそんな話で自分を納得させたんじゃないかしら。
 本当にきれいな人だったわよ。葉月はよく似てるわ」
 葉月ももう小さな子供ではないので、伯母さんの言う通りなのだろうと思っています。
 ただ、最近、葉月は夢を見るのです。
  真っ青な海。真っ白な砂浜。弧を描く水平線。吸い込まれそうな青空。
  気持ちよく海岸を歩いていると、波は穏やかなままなのに、遠い遠い水平線が静かに盛り上がる。
  ああ、逃げなくては…と思った時には、足が砂に埋まって動けない。
 もし恋人が「海へ行こう」と言ったら、どうしよう。
 時々、手のひらに真珠を並べて考えるのです。  



大暑=7月23日〜8月7日頃
初候・桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)次候・土潤溽暑(つちうるおうてむしあつし)末候・大雨時行(たいうときどきふる)
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私、初めてのデートで3時間ほど海辺に放置されたことがあります…。
相手はサーフィンが三度の飯より好きな方でして、それまでにも同じようなことを仕出かして、「ボードになっちまえ!」と罵倒されたこともあったとか。
海から上がってきた時の「またやっちゃった!」という顔が、いたずらを見つかった大型犬のようで可笑しくて、つい笑って許してしまったのでした…。
私も気の利いた台詞をかましておけば良かったな。
結局、海の子と山の子は、相容れないのでありました。


次回は8月8日「立秋」に更新します。

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by bowww | 2015-07-23 09:21 | 作り話 | Comments(2)

小暑

「今年は咲かないのかも知れないねぇ…」
 母がひとりごちた。
 窓の外を見ている。
 狭々(せまぜま)とした庭は、それでも小ぢんまりと整えられていたのだが、昨年の暮れに母が入院してからはすっかり荒れていた。ドクダミが幅を利かせ、ヒメジオンが我が物顔で咲き、アジサイの枝も野放途に伸びて貧弱な花を揺らせている。
「ごめんね、私がちっとも手入れをしないから」と謝りながら、どの花のことかと母の視線を追う。
「違うのよ、ノウゼンカズラ。お隣の」
 母は笑って、「虫を見ればキャーキャー騒ぐお前には期待してないわ」と続けた。
 隣家との境のブロック塀を越えて、ノウゼンカズラが悠々と蔓を伸ばしている。
 恐縮した隣りのご主人の「刈り取りますから…」という申し出を母が断った。
「お母さん、好きな花なのよ」
 意外だと少し驚いた。
 庭の花は白や青といったおとなしい色のものばかりでまとめられていた。ノウゼンカズラのような猛々しいほどの花は好みではないと思っていたのだが。
「貰い花ならお得でいいでしょ」
 去年の夏は、梅雨が終わる頃にたっぷりと花をつけたのに、今年は緑の蔓がぶら下がっているだけだ。
「花の当たり年と外れ年があるのかも知れないね。来年はたくさん咲くんじゃない?」
 何気なく言って胸が冷えた。
「そうかもね」
 母もさらりと答えて、お茶を淹れた。
 母に「来年」はないかも知れないのに。
 せっかくの一時帰宅なのだから、もう少し庭をきれいにしておけば良かった。


 父は私が大学を卒業してすぐに亡くなった。
 兄も私も実家を離れて就職したから、家には母が一人残された。
 母は「一人が気楽で良いわ。お母さん業から解放されます」と、同居を提案する兄に笑って宣言した。
 仲が悪いわけではない、喧嘩することもなく普通の親子関係だったと思うのだが、私と母はなんとなく馬が合わなかった。兄はごく自然に甘えたり反抗したりしているのに、私はほんの僅か、躊躇してしまう。
 分け隔てなく愛情をかけてもらったけれど、母も私にはどこか遠慮がちになる。
 親子でも相性はあるのだろう。
 自分も親になって、ようやくそう思えるようになった。
 母は一人になってからもパートで働き、友達と旅行に行ったり孫たちに贈り物をしたりと、慎ましいながらも楽しげに過ごしていた。時々、電話で様子を聞いてもいつも元気そうだったから安心していた。
 仕事を辞めて、気持ちが緩んだのだろうか。
 少し具合が悪いから病院に行ってみたら、そのまますぐに入院を勧められたと言う。
 病院に駆けつけると、ベッドの上で「驚かせちゃって…」と頭を下げた。
 すっかり薄くなった肩を見て、そう長くはないのだと分かった。

 病院での母は、いつも小さっぱりとしていた。寝乱れたパジャマ姿を見たことがなかった。
 時にはごくごく薄く化粧をしていたこともあって、驚く私に「気分転換になるじゃない」と答えた。
 若い頃の私は、母のこの几帳面さが苦手だったのかも知れない。きちんと隅々まで整えられた家や庭。だらしない服装をすると必ず嗜められた。いつも窮屈に思いながら大きくなった。
 今では私自身が中学生の娘に、「お母さんは細かすぎる」と嫌がられるのだから、やはり血は争えない。
 ある日、病院に行くと、母は部屋に居なかった。
 探しに行くと、西日が射すロビーの片隅で、同じぐらいの年頃の男性と話をしていた。見舞いに来てくれた知り合いだろうか。
 別れ際、二人は握手をした。一瞬、彼が母の手をもう一度強く握るのが見えた。
 私は母に気付かれないように部屋に戻った。
 糊がきいた真っ白なシーツをぼんやり眺めながら、一枚の写真を唐突に思い出した。
 満開のノウゼンカズラの前で微笑む母の写真。
 入院の手続きのために必要な書類を実家で探しているとき、通帳や保険証が入っている引き出しで見つけた。
 写真の中で母が着ている水色のワンピースは、私が初めての給料で贈ったもので、色白の母によく似合っていた。
「あら、来てくれてたのね。ありがとう」
 病室に戻って来た母は、赤い薔薇を一輪、持っていた。
 サイドテーブルのグラスに無造作に挿す。
「お見舞いに来たお友達がくれたのよ。花束は大袈裟だから、て」
 あの写真を撮ったのは、先ほどの男性だったのではないか。
 母の痩せた指が、開きかけた薔薇をそっと突いた。


 母の三日間の一時帰宅に合わせ、私も実家に泊まった。
 母は手際良く身の回りの片付けをした。捨てる物と私たちに譲る物を仕分けし、保険会社や銀行の担当者、親戚など、連絡を取るべき相手のリストも用意していた。
 あまりに淡々と進めるので、私も当たり前の顔をして付き合った。
 通帳と一緒に、あの写真も出てきた。
「お母さん、きれいだったじゃない?」
 私がからかうと、母は「お母さんだって捨てたもんじゃないでしょ」と笑った。
 そして写真をゴミ箱に放り込んだ。

 病院に戻る朝はどんよりとした曇り空だった。
「あら、咲いた」
 庭を眺めていた母が小さく声を上げた。
 ノウゼンカズラに灯火のような花が二つ、咲いている。
「そろそろ行こうか」
 声を掛けると、母は振り向かずに「うん」と頷いた。
 私はこっそり、ゴミ箱から写真を取り出して自分の鞄に仕舞った。


小暑=7月7日〜7月22日頃
初候・温風至(あつかぜいたる) 次候・蓮始開(はすはじめてひらく) 末候・鷹乃学習(たかすなわちわざをならう)

  


次回は7月23日「大暑」に更新します。

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by bowww | 2015-07-07 09:26 | 作り話 | Comments(6)