カテゴリ:作り話( 49 )

石の椅子(大雪)

 冬の公園はあっけらかんと明るい。
 背の高い木々の葉は落ちて、骨格標本のような梢を北風に晒している。
 手袋も持ってくれば良かったと、マフラーに顔を埋める。
 日向のベンチを選んで座っても、やっぱり風が冷たい。
 皆、肩を竦め、足早に通り過ぎて行く。私を気にする人などいない。
 なんだ、こんなに簡単なことだったんだ。
 昼休みに学校を抜け出した。
 普通に帰り支度をして、普通に校門を出て、普通に駅まで歩いた。
 いつ呼び止められるか内心はビクビクしていたのに、誰にも咎められなかった。
 家とは逆方向の電車に乗ってから、スマホの電源も切った。
 こんなに簡単に行方不明になれるんだ。
 大きな公園がある駅で降りた。

 高校に入って友達が二人できて、楽しく過ごしてきた。
 でも、お昼を食べるとき、教室を移動するとき、トイレに行くとき、放課後、ちょっと遊びに行くとき。
 「とにかくいつでもなんでも一緒」なのが、正直なところ面倒くさくなっていた。
 女子は敏感だ。
 ほかの二人は、私より先に私の気持ちに気がついて、私より先に距離を置き始めた。
 無視ほどあからさまではなく、二人で遠巻きに私を見ているような。
 自分で招いたことだから仕方がないと思いつつ、やっぱり穏やかな気分ではいられない。
 このまま「ぼっち」になるのも怖い。
 スマホの電源を入れようとして手を止める。
 彼女たちから連絡が来ていれば面倒だし、来ていなければ気持ちがザワザワする。
 鞄にスマホを放り込み、文庫本を開いた。
 せっかく学校を抜け出したけれど、にぎやかな場所へ行く勇気とお金がない。
 宙ぶらりんな自分に、ため息が出る。

 やっと本に集中し始めた頃、お年寄りの夫婦がゆっくり歩いて来た。
 おじいさんは左足が少し不自由なのか、杖をついている。
 ベンチまで来ると、おばあさんが私に「お勉強中にごめんなさいね」と断って、おじいさんを座らせた。
 私は会釈して、右側を空けた。
 私、おばあさん、おじいさんの順番で並んで座る。
 おばあさんは持っていた小さな鞄を開けて、テキパキと水筒や紙包みを取り出した。
 おじいさんは杖に凭れて、生け垣を指差した。
「ああ、山茶花ね。咲いてますね」
 水筒には熱い焙じ茶が入っていたらしく、香ばしい匂いが届く。
「熱いから、しっかり持ってくださいよ」と、おじいさんの右手にカップを渡す。
 続いて紙包みをゴソゴソすると、もっと甘く香ばしい匂いが広がった。
 思わず横目で確認してしまう。
 たい焼きだ。
 おばあさんの膝の上に、むちっと太ったたい焼きが三匹並んでいた。おじいさんからカップを受け取り、代わりに紙でくるんだたい焼きを渡す。
「はい、どうぞ」
私の視界に、いきなりたい焼きが突き出された。
「…え?」
「お隣になったご縁。嫌いじゃなきゃどうぞ」
「…でも…」
「ついね、切りよく『三つください』って言っちゃうのよ。
 持ち帰っても冷めちゃうし荷物になるから、食べてもらったら助かるの」
 お腹がグゥ…と鳴る。
 そういえば、お昼を食べていなかった。
「それじゃ、いただきます」
 たい焼きは手のひらにズシッと重く、まだ温かかった。
 尻尾やヒレの先が少し焦げて、お腹の辺りは中の餡が透けて見えた。
 頭から齧る。
「あら、あなたも頭からなのね。うちの人もなの。私は尻尾から」
 おばあさんは笑って、尻尾を千切った。
「…あの、尻尾のカリカリした部分が好きで、最後に食べたくて…」
「私は餡の部分を取っておきたいのよ。だから本当はお腹を最後にしたいくらい」
 おじいさんは、私とおばあさんがお喋りしている間にたい焼きを食べ終えていた。
 おばあさんは再び、お茶を渡す。
 おじいさんはおばあさんの肘をちょいちょいと突く。
「そうね、お勉強の邪魔しちゃいけないわね」
「いえ、本を読んでいただけですから。こちらこそ、ご馳走さまでした」
 おじいさんは私の手元を覗き込み、本のタイトルを見てにっこり笑った。
「この人、学校の先生をしてたのよ。本が好きでね、家中、本だらけ。
 今は小さな字を読むのも一苦労だから、ほとんど宝の持ち腐れよ。
 それでも、本を読んでる若い人を見ると嬉しいんでしょうね」
 おばあさんが荷物を片付けている間、おじいさんは私の本を指差して、
「本はいい。本はいい」と二度呟いた。

 かじかんでいた指先が、たい焼きのおかげで少し温まった。
 ゆっくり歩いて行くおじいさんとおばあさんの背中を見送ってから、ぐんと伸びをする。
 足元に積もった枯れ葉がガサゴソと音を立て、日向の匂いが立ち込めた。


  枯れ葉のため小鳥のために石の椅子 西東三鬼

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寒くなりました。
あったか下着と貼るカイロが手放せません。
明日は雪の予報が出ています。
冬へまっしぐら。

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来年の手帳を買いました。
ここ数年、ほぼ日のウィークリータイプの手帳を買っていたのですが、どうしても最後まで使い切れず、もったいないことを繰り返してきました。
内勤なので、予定表としては月ごとのカレンダーだけで用が足ります。
今回は薄くシンプルなマンスリータイプの手帳を選びました。
表紙は向日葵みたいな陽気な黄色です。
仕事ばかりではなく、楽しい予定も書き込めるといいなと期待を込めて。



 

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by bowww | 2017-12-07 22:40 | 作り話 | Comments(2)

白湯一椀(小雪)

「ただいま」
 玄関のドアを開けて、真っ暗な家の中に声を掛ける。
 答える声はないけれど、習慣だから仕方がない。
 玄関ホールから廊下、ダイニングまでの明かりを全部点けて、テレビのスイッチも入れる。
 大袈裟な笑い声が、空っぽを埋めるように画面から流れ出す。
 娘の出産に立ち会いたいからと、妻が若夫婦の新居に押し掛けて五日になる。
 初孫との対面はもちろん楽しみだが、我が子が生まれたときも暫くは実感が湧かなかったぐらいだから、正直なところ、どんな気持ちで待っていればいいのかよく分からない。
 妻の浮かれぶりを、羨ましいような疎ましいような思いで見ていた。
 久しぶりの独身生活を味わうつもりだったが、誰も居ない家に帰る日が続くとそんな気分も縮こまっていく。
 買って帰る出来合いの総菜も飽きてきた。
 朝食に作った味噌汁を温め直す。
 温い匂いと湯気で、やっと気持ちが解れる。
 今日は、冷たい雨が降ったり止んだりする一日だった。
 なんとなく胃まで縮こまっているような気がして、晩酌用に買った缶ビールは、そのまま冷蔵庫に仕舞った。
 結局は、レンジで解凍した飯と味噌汁、スーパーのコロッケが並ぶ侘しい食卓となった。

 風呂から上がる頃になると、胃がジワジワと重苦しくなってきた。
 コロッケの油がいけなかっただろうか。
 胃薬の買い置きがどこかにあったはずだが見つけられない。
 癪だが、妻に電話を掛けてみる。
 出ない。
 今頃は娘たちと楽しく夕飯を食べていて、自分の携帯電話が鳴っていることも気がつかないのかも知れない。
 そう想像すると、余計に腹立たしくなる。
 腹を立てている間に、胃が一層重くなった気がする。
 このまま激しく痛むようなら、夜間救急の病院に行くべきだろうか。
 今度は途端に心細くなってくる。
 自分で動けるうちに、保険証を探して、最寄りの夜間外来を調べてと、あたふたしている最中にふと思い出した。
 キッチンで湯を沸かす。
 大きい湯呑みを取り出して、八分目ほど湯を注ぐ。
 飲める温度になるまで、湯呑みを両方の手のひらで包み込む。
 じんわり温かい。
 そっと啜り込むと、喉から食道、胃にかけて、ぬくもりが流れていく。
 思わず溜め息が漏れる。
 昔はよく、母に白湯を飲まされた。
 味も素っ気もない湯など、美味しくもなんともない。
 文句を言っても、「薬代わりだから飲みなさい」と返されたものだった。
 母のエプロンのポケットは、輪ゴムやらレシートやら新聞の切り抜きやらで、いつもパンパンに膨れていたな、などと他愛もないことを思い出しているうちに、胃はむっくりと動き出していた。

「お父さん!生まれましたよ!元気な男の子!」
 ベッドに入ろうとしたところで、やっと妻から電話が来たと思ったら、はしゃいだ声でまくし立てられた。
「おお!そうかそうか!良かったなぁ」
 釣られて、自分でも驚くほど明るい声が出た。
 驚きながら、ゆっくり嬉しさがこみ上げてくる。
 陣痛が始まってから生まれるまでの様子を喋り続ける妻に、機嫌良く相槌を打つ。
 週末には、自分もそちらに行くと伝えた。
「…そういえばお父さん、電話くれてたでしょ?何かあった?」
 ようやく少し落ち着いた妻が尋ねた。
「いや、胃薬はどこかと思ってさ」
 食器棚の引き出しに入っているはずだと答える妻は、
「きっと冷えたのね、白湯を飲むと楽になるわよ」と付け足した。
 もう飲んだと言うと、「あら、気が利いた」と笑い声がした。
「昔から、私がよく飲ませたものね。お父さん、この季節になると決まって胃がおかしいと言い出すから」
 そうだっただろうか。
 膨らんだエプロンのポケットは、妻のものだったろうか。
 キッチンに行って、胃薬を取り出し、薬缶を火にかける。
 ガスコンロの青い炎を眺めながら、自分の記憶の不確かさに戸惑う。
「どっちでも同じか、」
 湯を注いだ湯呑みから、ゆらりと湯気が立つ。


  白湯一椀しみじみと冬来たりけり 草間時彦

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今朝は真冬並みの冷え込みとなりました。
雲が晴れて姿を現した山々はすっかり冬景色。雪を纏って厳めしい表情になりました。
心の準備ができていないまま、冬に突入です…。

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秋の思い出、数点。

先月、開店以来ずっと通っていたカフェが閉店しました。
女性お二人でやっておられたお店で、「カフェ」というより、「喫茶店」と呼びたくなるような、のんびりとした居心地の好さがありました。
休日の午後は、つっかけ履き(のような気持ち)で出掛けて、カフェオレを飲みながら友人に手紙を書くのがお決まりでした。
以前、住んでいた借家の自分の部屋が暗くて寒かったので、このお店に避難しているようなものだったのです。
個人で飲食店を経営する大変さは、素人でも少しは想像ができます。
お二人が一生懸命考えて出した結論に、他人があれこれ言ってはいけないですよね。
それでも、あまりに寂しくて、切なくて…。
自分の居場所が一つなくなってしまったような心許なさを感じています。

風邪が流行ってますね。
職場では、風邪をひいていない人間の方が少数派といっていいぐらいです。
皆様もお気をつけくださいね。
 


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by bowww | 2017-11-22 22:08 | 作り話 | Comments(0)

きらりと(立冬)

 目の前の絵が、香ったのかと思った。

 閉館時間が迫る美術館に駆け込み、とにかくお目当ての絵だけでもと、急ぎ足で館内を巡る。
 古今の日本画が並ぶ展示室に人気(ひとけ)は少なく、残った人たちは思い思いのペースで作品を眺めている。
 気忙しい足音が恥ずかしくなり、私も足を止める。
 目の前には、薔薇を一輪だけ描いた小品があった。
 タイトルに「冬薔薇(そうび)」とある。
 くすんだ金泥を背景に、紅を滲ませた薔薇の蕾が綻びかけている。金泥は、最後の花を包みこむ冬の陽射しのようだ。
 薔薇の香りが、鼻を掠めた。
 思わず絵に鼻を近づける。
 香るはずがない、作者名を確かめたふりをして一歩下がった。
「…あ!すみません!」
 知らぬ間に背後に立っていた誰かとぶつかってしまった。
「いえいえ、こちらこそ」
 穏やかな女性の声が返ってくる。
 グレーのニットワンピースに紫紺のストール、そのストールに真っ白な髪が映える。
 再び薔薇の香りが漂い、どうやらこの女性の香りであるらしいことに気がつく。
「良い絵ですものね、冬の薔薇」
 女性は静かな声で話を続けた。
「明日には寒さで枯れてしまうかも知れないけれど、それでも咲くのね」
 こちらを見ると照れたように微笑んだ。

 それをきっかけになんとなく歩調を合わせ、二人で展示室を回った。
 気に入った絵があれば足を止め、互いに一言二言感想を伝える。
 女性は小柄だか姿勢が良く、手の仕草が美しかった。
 そして動く度に、ふわりと薔薇の香りがした。上等なトワレなのだろうか、いやみのない自然な香りだ。
 作品を一通り観終わってロビーに出た。
「ご一緒できて良かった、楽しかったわ」と微笑む彼女に、思いきって尋ねてみる。
「あの、薔薇の香水をお使いですか?とても良い香りだから、羨ましくなってしまって…」
 女性はそっと私を手招きすると、持っていた栗色の小さなハンドバッグを開けて見せた。
 覗き込むと薄い花弁がひらりと揺れた。
 良く出来た造花かと目を凝らす。
 ピンクの薔薇、純白の薔薇、茜色の薔薇、クリーム色の薔薇、深紅の薔薇。
 みずみずしい香りが馥郁と立ちのぼる。
 作り物ではない。
 声も出せないまま顔を上げた私を、女性はいたずらっ子のような瞳で見つめ返した。
「私の薔薇たちは枯れないの」
 また何処かでご一緒しましょうと朗らかに告げると、女性は夕暮れの街へ歩いて行った。


  返り花きらりと人を引きとどめ 皆吉爽雨

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この薔薇は、返り花というより名残花と呼ぶべきでしょうね。
枯れていく庭の中で、最後の彩りを見せてくれていました。
日が落ちた直後、北風が時々吹く中で撮ったため、ふるふる震えているよう…。
…単なる手ブレです。。


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冬が来ました。
この数日は文字通りの小春日和で、カリンの蜂蜜漬けを作ったり、布団と一緒に日向ぼっこしたりと、お日さまの恵みを堪能しました。
写真は昨日の朝、駅のホームです。
里山の麓にあるため、朝日が届くのが遅いのです。
色づき始めたお社の銀杏が、光を受けてとても綺麗でした。



 

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by bowww | 2017-11-07 18:29 | 作り話 | Comments(0)

月光に(霜降)

「いつでもここに来ればいいよ」。
 ふと、思い出す声。

 昨日まで王様は僕だったのに、ちっぽけな赤い猿みたいな生き物が登場した途端に、僕の天下は終わった。
 父さん母さんはもちろん、おじいちゃんおばあちゃん、通りすがりの大人たちまで、生まれたばかりの弟に微笑みかける。
 僕は弟のおまけみたいだ。
 泣いても笑っても怒ってもほったらかし。
 弟なんか、いらない。


「ほら。一口齧れば充分さ」。
 誰の声だっただろう。
 苔むした木の根もと。

 彼女は一番の友達。何でも話せる親友。
 頭が良くて明るくて、そしてとても可愛い。中途半端なアイドルより、ずっと可愛い。
 私の大好きな友達。いつも一緒。
 でも、時々、たとえば二人並んで大きな鏡の前に立った時。
 たとえば担任の先生が、彼女にだけ優しい言葉をかける時。
 ずるい。
 息が詰まる。


「効き目はゆっくりだけど、確実だよ」。
 よく知っている、懐かしい声。
 落ち葉が朽ちていく匂い。
 しんと冷えた空気。

 娘を連れて実家に行く。
 フリルのついたワンピースや知育絵本、オーガニックな材料で作ったお菓子。
 行く度に、子供の為になる何かが用意されている。
 三歳の娘は自己主張が始まったばかりで、好き嫌いが激しい。
 為になるものほど、見向きもしない。
「あらあら、お母さんとそっくりの我がままさんね。
 あのね、つまらない物ばかり与えていると、くだらない女の子になっちゃうのよ」
 淡いピンクベージュの口紅で整えられた母の唇が、見事な弧を描く。 
 ねぇ、お母さん、私はあなたが嫌いです。


 近所の公園で、学校の裏庭で、寂れた避暑地の林で。
 静かに肥えていく茸。
「もうすぐ月が満ちるよ」
 

  月光に毒を蓄へ毒きのこ 遠藤若狭男


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秋の台風は大事になりやすいですね。
野分と呼ぶには、あまりに荒々しい秋の台風が通過していきました。
久しぶりの青空はありがたいのですが、濁流や土砂崩れの映像を見ると心が塞ぎます。

仕事でドタバタしていましたが、日付が変わらぬうちになんとかブログ更新。。
写真の茸、子供の小指の爪よりも小さかったのです。




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by bowww | 2017-10-23 22:30 | 作り話 | Comments(0)

ひざまづく(寒露その3)

 ある日、お嬢様から一冊の本を手渡された。
「森田さんは、源氏物語を読んだことあるかしら」
「…漫画でなら…」
 お嬢様は「あらあら」と笑い声を上げた。
「原文の朗読は無理ね」
「いえ、普通の活字で書かれているなら、たぶん大丈夫だと思います」
「では、第十帖を読んでいただける?」
 恐る恐る本を開き、漫画で読んだストーリーと場面を必死で思い出す。
 第十帖は、源氏の君の年上の恋人・六条御息所が、自身の嫉妬心に耐えきれず、娘と共に伊勢へ下向することを決めて野の宮に籠っているところへ、源氏が会いに行くという場面だ。
「遥けき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり。秋の花、みな衰へつつ、浅茅が原も枯れ枯れなる虫の音に、松風、すごく吹きあはせて、そのこととも聞き分かれぬほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶なり。」
 気位の高い御息所を持て余し、自ら離れていったというのに、秋の野の宮の風情と心弱りした御息所の艶っぽさに、「やっぱり手放すのは惜しい人」と涙する源氏の君。
 血を吐く思いで諦めた若い恋人の涙を見て、心が揺れてしまう御息所。
 時々、つかえながらも何とか読み終えた。
 田上お嬢様は二度、三度ゆっくりと頷いてから、私に訊ねた。
「森田さんは、源氏物語はお好き?」
「…源氏の浮かれポンチっぷりに腹が立ちますけど。すぐに泣くし」
 思わず本音が出た。
 お嬢様は今度こそ、心底楽しいというように笑い声を上げた。
 口を覆う右手には、大きな翡翠の指輪がとろりと輝く。大きすぎて、細い細い指が折れてしまいそうだと、いつも少しだけ不安になる。
 サカキさんがドアをノックして、お茶の時間を告げた。

「えっ⁉︎ 森田さん、田上さんたちの話、信じちゃったの?」
 田上さんとの契約が終わり、朗読ボランティアの集まりに久しぶりに顔を出すと、会長の押尾さんが素っ頓狂な声を上げた。
「没落したお金持ちだか名家だかのお嬢様って教わったんでしょ?
 違うのよ、あのお二人ご夫婦なのよ」
 私は呆気にとられて押尾さんの顔を見返した。
「ごく普通のご夫婦なのよ、旦那さんは元サラリーマンで奥さんは専業主婦。確か息子さんが二人いたはずよ」
 数年前、奥さんが大病し、命は取り留めたけれど記憶が混乱する後遺症が残ってしまったという。
「きっと憧れだったのね、お嬢さまの生活が。
 旦那さんは奥さんがパニックにならないように、話を合わせてあげてるというわけ」
「あそこの旦那さん、なかなかの男前でしょ。若い頃は結構、奥さんを泣かせたみたいよ。仕事が忙しいから、家事も育児も任せっぱなしだったみたいだし…。
 介護大変ですねって声を掛けたら『罪滅ぼしと恩返しのようなものです』って」
 別の会員が押尾さんの声を聞きつけて口を挟み、噂話がどんどん広がっていく。
 私はトイレに行くふりをして席を離れた。
(騙された!)
 洗面台でじゃぶじゃぶ手を洗いながら、カーッと血が上った頭を冷やす。
 年寄りのおままごとに、疑いもなく巻き込まれた自分の間抜けっぷりが恥ずかしい。
 鏡の前に飾られた紫苑が目に留まる。
「…秋の花、みな衰へつつ…」
 西向きの窓から射し込む秋の陽射しが眩しくて目を細めた。
それにしても、サカキさんの紅茶は美味しかった。
何があったにせよ、今のお嬢様は、穏やかな夢を見ながら微睡んでいる。
 ほんの少しだけ、あの部屋のほの暗さを懐かしく思い出す。
  


  ひざまづく八千草に露あたらしく 坂本宮尾
 

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すっかり長くなりました、お付き合いありがとうございます。
秘密の小部屋、モデルは作家の森茉莉さんです。
唯一無比の美意識を頼りに集めた自分だけの宝物(他人から見れば完全なガラクタ)に囲まれて、薔薇色の夢を見ながら生きた人ですね。
今の断捨離ブームの対極にある暮らしぶり。
宝石箱のような言葉の数々は、何度読み返してもため息ものです。





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by bowww | 2017-10-10 11:07 | 作り話 | Comments(2)

ひざまづく(寒露その2)

 足までの長い緑色のワンピースに黒天鵞絨のカーディガン、エメラルドグリーンのストールを羽織った老女が、「お嬢様」であることにまず驚く。そして、部屋の有様にも言葉を失う。
「ボランティアの方?ご苦労さま。まずは声を聞かせていただける?」
 動揺を押し隠し、ゆっくりと自己紹介する。
 田上お嬢様はほとんど目が見えないのだという。
「あら、良いお声。私が好きなお声だわ。
 森田さん、でしたっけ?あなた、フランス語は?」
「…えっと、全く習ったことがなくて…」
「それは残念ね、久しぶりに原書で読んでみたい本があったのだけれど…」
 そっと本棚に目を走らせる。確かに何冊か洋書も混じっているようだ。背表紙は灼けて、書名の箔押しはほとんど剥げ落ちているが。
 なんなら、断ってもらっても構わない。
 この不思議な部屋に通い続ける自信がない。
「まあ良いでしょう、耳に障らない声の方って、なかなか見つからないものね。
 サカキ、こちらの方にお願いしましょう」
 どうやら合格してしまった。
 高くも低くもない、のっぺりとした声だと自分では思っているのだが、お嬢様のお気には召したらしい。
 以来、週に一度、田上邸に通うことになった。

 読んでも読んでも、声が吸い取られて消えていく。
 お嬢様の部屋の音響効果は、限りなく無に等しい。ガラクタたちが音を端から吸収してしまうから、知らず知らずのうちに、声を張り上げてしまう。
「森田さん、少しボリュームを下げてくださるかしら」
 お嬢様は、ちょっとだけ右手を上げて見せる。
 私は慌てて詫びて、自分の声の行方に無頓着でいようと心がける。
 そうしているうちに、自分もこのままこの部屋の一部になってしまう錯覚に捕われる。
 仄暗い部屋の隅で埃が光にきらめく様を、もう何年も何十年も眺め続けているような…。
 ドアをノックする音で我に返る。
「お嬢様、森田様、お茶の時間でございます」
 サカキさんが淹れてくれる紅茶はとびきり美味しい。
 紅茶の香りと温かい湯気に、ほっと一息つく。
 お茶の時間は、サカキさんがお嬢様につきっきりでお世話をする。
 紅茶が熱すぎないか確認し、カップをそっと手渡す。頃合いを見て、ミルクを足したり、焼き菓子を取り分けたりと、目が不自由なお嬢様が不便を感じないように働き続ける。
 動きの一つ一つに無駄がない上にこまやかだ。
「サカキさんは、ずっとお嬢様とご一緒だったんですか」
 一度、帰りがけの玄関で聞いてみたことがある。
「…いえ、先代にお世話になった後、一度は田上家を出ました。お嬢様がお一人になられたと聞いて戻ってまいりました」
 お嬢様とサカキさんはきっと年齢も近い。
 何かロマンスがあったのではないかという想像も楽しく、いつしか田上邸に通うのが嫌ではなくなっていた。


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もう一回だけ、続きます…。

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by bowww | 2017-10-09 07:05 | 作り話 | Comments(0)

ひざまづく(寒露その1)

 整然と、しっちゃかめっちゃか。
 田上さんの部屋入った途端、濃密な空気に圧倒される。
 まず薄暗い。昼間でも分厚いカーテンを引きっぱなしだからだ。
 次に匂い。外国の石鹸のような粉っぽくて甘ったるい匂い。
 そして、大量のガラクタ。
 大小様々で色とりどりのガラス瓶と古い本が、造り付けの棚いっぱいに詰め込まれ溢れ出ている。小さな書き物机は大量の紙類(上等な千代紙から何かの包装紙、紙箱、雑誌や新聞の切り抜きなどなど)が堆積している。鏡台周りにも大量のガラス瓶。本物なのかイミテーションなのか、アクセサリーの類いが無造作に並べられている。華奢な椅子の上には、レースが幾重にも波打つ子供用ドレス。もともとは薔薇色であったらしいサテンのリボン。
 壁一面には絵はがきと写真。はがきの文字はすっかり色褪せて消えかかっている。昔の外国の女優・俳優の写真が何枚も。セピア色の家族写真に写っている女の子は、レースのドレスを着て大きなリボンを髪に結んでいる。
 しっちゃかめっちゃかなのに、手を出せない。
 何か一つ抜き出せば、たちどころに雪崩落ちそうな危うい均衡を保っている。
「お嬢様、森田様がおいでになりました」
「そう。お通しして」
 私は慌てて一歩、後ろに下がる。許しもなく部屋に立ち入っていた。
 サカキさんは穏やかに、私を田上さんの近くに導く。
「お嬢様、今日はどの本にいたしますか」
「なにか二、三冊持って来てちょうだい。森田さんに選んでいただきましょう」
 サカキさんはごちゃまぜの本棚から、絶妙な力加減で三冊を引っ張り出して私に手渡した。
 三十年前の経営指南の本と、女優(すでに故人の)が書いたレシピ集、谷崎潤一郎の短編集。
「…谷崎潤一郎の小説でよろしいですか?」
 田上さんはおっとりと頷くと、真っ白く骨張った手を伸ばして、私に座るように促す。
 座れと言われても、部屋はあらゆるガラクタに占拠されていて、腰を下ろすスペースもない。
 サカキさんは、素早くベッドの上の山積みの服を片付けて、「どうぞ」と微笑んだ。
 私がなんとか僅かなスペースに腰を落ち着けたのを見届けて、サカキさんは静かに部屋を出て行った。
 手元にフロアライトを引き寄せ、私は本を開く。
「それでは、お読みしますね」
 田上さんはまたおっとりと頷き、指を組んだ。僅かな身じろぎで、座っている椅子がぎしりと軋む。
 私はできるだけゆっくりと、谷崎の短編を読み始めた。

 朗読ボランティアの会に登録して、初めて派遣されたのが田上さんの家だった。
 マンションや雑居ビルの狭間に、ぽつんと取り残された庭付きの古い家を訪ねると、品の良いおじいさんが出迎えてくれた。
 スーツはやや大きめで形も古いが、糊のきいた白いシャツに真新しいネクタイを締めている。
「ボランティアでお伺いした森田です。ご主人さまですか?」
「お待ちしておりました、私は田上の使用人でサカキと申します」
 きょとんとした私に微笑んで見せると、サカキさんは声を潜めて続けた。
「森田さんはお若いですから、ご存知ないのも無理はない。田上家はこの辺りの名家だったのですが、先代、つまりお嬢様のお父様が早くにお亡くなりになってから、ご不運が重なりまして…」
 後は察して欲しい、という目で見つめられても、私としては返す言葉がない。
 お金持ちがお金持ちでなくなって、今に至るということなのだろう。
 ボランティアの立場で、派遣先の事情をあれこれ詮索するのは憚られる。
 私は曖昧に微笑み、促されるままに田上邸に足を踏み入れた。


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長くなりましたので、分けてアップします。
汗ばむような陽気の寒露になりました。


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by bowww | 2017-10-08 11:16 | 作り話 | Comments(2)

白萩や(秋分)

 実家に寄ったのは、母の三回忌以来だから二年ぶりになる。
 予め言っておいたのに、訪ねてみれば兄は外出中で、兄嫁の和子さんが出迎えてくれた。
「すぐに戻るから」とダイニングに通される。
 広々と明るいダイニングキッチンに、座り心地の好いソファ。
 空色の皿に、和子さんが焼いたパウンドケーキが一切れ。揃いの空色のティーカップには、淹れたてのコーヒー。
 いつ来ても掃除が行き届き、部屋の片隅には小さな花が飾られている。
 母の介護中でも、家の中はこざっぱりと片付いていた。
 パート勤務とはいえ和子さんも働いているのに、家事や介護の手を抜くことはなかった。
 母が歩けなくなってからは、娘の私でさえ手出し口出しする必要がないほど、こまやかに面倒をみてくれた。
 感謝してもしきれないと思っている。
 ケーキを食べながら、窓の外を眺める。
 小さな庭もきれいに手入れがされていて、色づき始めた庭木が美しい。
 昔はあの辺りに大きな柿の木があって、この季節になると渋い実を鈴生りにつけた。
 台所は狭くて、冬は寒く夏は西日が射し込んだ。
 いつも何やらごちゃごちゃ物があって、母はいつもバタバタ忙しそうだった。
 溢れ出しそうになる思い出を、コーヒーと一緒に飲み込む。

 和子さんは美人で優しく気が利くと、結婚した当時でさえ周りから「今時珍しい」出来たお嫁さんと褒められた。
 兄は子供が生まれたのを機に実家を改築した。
 古くて隙間風でがたつく家は、明るく清潔に生まれ変わった。キッチンは使い勝手が良くなり、訪ねれば、和子さんの凝った手料理が振る舞われた。
「母さん、出番ないわぁ」
 そう言って母は、私たちの家に来てはあれこれと世話を焼いた。
「あれだけ完璧なお嫁さんだと、嫁いびりする隙もないでしょ?」
 私の冗談に、母は真顔で
「そんなことしたら罰が当たるわ」と答えた。
 本当に良くやってくれるもの、と続けた母の横顔を今でも思い出す。

 兄は帰って来ない。
 互いの子供たちの近況、自分の体の調子と健康情報の噂、夫への愚痴を一通り話し終えると、和子さんと私の間の話題は尽きてしまった。
 特別な用事があったわけではない、お彼岸が近いから両親の仏壇に挨拶に来たようなものだ。
 またお邪魔するからと腰を上げた。
「これ、作ってみたの。食べてみて」
 帰りしな、和子さんは小さな重箱を持たせてくれた。
 見た目より持ち重りがする。
「おはぎ。お母さん直伝なんだけど、どうしても上手に作れなくて、毎年挑戦してるのよ」
 目尻に深い皺を寄せて、和子さんは微笑んだ。

 玄関を出ると、生け垣の萩が風に煽られて花を散らした。
「萩は枝が伸びるから、手入れが厄介でしょ?」
「ううん、ほったらかしよ。私も好きな花だからいいの」
 家に着いて、着替えて湯を沸かす。
 ガスコンロの青い炎をぼんやり眺めていて思い出した。
 母は、萩の花が好きだと言っていた。
 あの生け垣は昔からあったのか、それとも和子さんが育ててくれたのか、私には思い出せない。
 考えてみれば、私が母と暮らした時間より、和子さんが母と過ごした時間の方が長いのだ。
 お湯が沸いた。
 熱い焙じ茶を淹れて、重箱の蓋を開ける
 ごつごつした小豆の餡をまとったおはぎが、ぎゅぎゅっと不格好に詰まっている。
 何とか一つだけ引っ張り出して、齧りつく。
 美味しい。
 けれど、これが母の味かどうか、私はとうに忘れてしまった。
 今度は和子さんに会いに、実家に行こうと思う。


  白萩や母なき里の遠くなり


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…白萩の写真が撮れず、その対極にあるような深紅のケイトウ…。

白萩の句は、実はラジオで聞いただけなので、どなたの作品なのか分からないのです。
昨年、NHKラジオの「文芸選評」という番組を聞くともなく聞いていたとき、入選したこの句がとても心に残りました。
車の運転中だったため、作者のお名前を聞きそびれ、メモも取れずにうろ覚えです。
満開の白萩とそれを眺める人(作者は女性でした)の品のある佇まいや、清々しいような寂しさまで想像できて、佳い句だなぁと思います。
こんな俳句が詠めたら、嬉しいでしょうね。

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雨が降るごとに気温が下がって、秋がぐっと深まります。
お天気もようやく安定してきたでしょうか。
日没直後、たなびく雲が金色に輝く龍のようで、色褪せるまでぼんやり眺めていました。
瑞兆…ではなかったようですけど(特に良いことは起こりませんでした…)。
自分が住んでいる場所を、春夏秋冬、「良い所だなぁ」と思えるのは、本当にありがたいことだと思います。

 


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by bowww | 2017-09-23 16:23 | 作り話 | Comments(0)

金糸雀(白露)

 よりにもよって、王様の目の前で。
 歌姫の声は、ぴたりと止まってしまったのです。

 貧しい村で生まれた少女は、言葉を覚えるよりも先に歌を歌いました。
 母親の子守り唄も、村の年寄りたちが口ずさむ古い歌も、一度聞けばすぐに覚えました。
 小鳥たちの鳴き声も、そっくりそのまま真似ました。
 もっと、もっと歌いたい。
 耳に入る歌だけでは飽き足らず、やがて少女は自分の中から音を汲み出し、歌にしたのです。
 少女の周りにはいつも人が集まりました。
 喜びの歌、悲しみの歌、鼓舞する歌、鎮める歌。
 思わず踊り出す人、涙を流す人、胸を張って再び歩き始める人、拳をそっと背中の後ろに隠す人。
 少女の歌は、人々の心を映して自在に響きました。

 評判は瞬く間に広がります。
 少女の父親は、彼女の歌がお金になることに気づきました。
 村を出て街へ、もっと大きな街へ。
 人が増えるほど評判は高まり、お金もたくさん入ってきます。
 父親は少女に、お金を取らずに歌うことを禁じました。
「商売道具を安売りしちゃいけない」
 惜しみなく払ってくれる金持ちにだけ聞かせればいいのです。
 身分のある人たちの前に立つ度に、歌声は美しく洗練されていきました。
 でも、少女の心は次第に、カサカサと乾燥していったのです。

 小さな歌姫の評判は、とうとう王宮にまで届きました。
 王様のお誕生日を祝う宴に呼ばれたのです。
 有頂天になる父親に、歌姫は言いました。
「なんだか声が掠れ気味なの」
 父親は、喉に良い薬草をたっぷり入れた蜂蜜を娘に飲ませました。
「頭が痛くて、歌の言葉を忘れそう」
 父親は楽団に、もしもの時は楽器の音を大きくして凌ぐように言い含めました。
「王様の宴にふさわしい衣装が…」
 父親は、それはそれは美しいドレスと靴、髪飾りを用意しました。
 それだけのお金は、もう持っていたのです。
 歌姫は気が進まないまま、王宮へ赴きました。
 きらびやかな宮殿の豪奢な宴。
 歌姫は王様の前に呼び出されました。
 評判の歌姫に、大勢の視線が集まります。
 お祝いの歌を。
 楽団の演奏に合わせて、美しい声が流れ出すはずでした。
 歌姫の口が、ぽっかりと開きました。
 楽器の音だけが、飾り立てた広間に虚しく響きました。

 王様の前での大失態で、歌姫の評判は地に落ちました。
 歌を失くした歌姫は、みすぼらしい少女に戻りました。
 どんなに歌おうと思っても、耳を澄ませても、旋律も言葉も出てきません。
 少女は話すことさえ止めてしまいました。
 そんな少女を、母親は黙って見守り続けました。
 浅い眠りに就く娘の傍らで毎晩、小さな声で子守り唄を口ずさみました。

 ある美しい秋の朝、少女は空を見上げました。
 南へ帰るツバメが、少女の目の前で一声鳴いて宙返りしました
 少女は思わず手を差し伸べ、「チィ…」と声を返しました。
 途端に、風の音、木々の葉のざわめき、小川のせせらぎ、動物や小鳥たちの鳴き声、人々の笑い声がどっと少女を包み込みます。
 あっという間に、少女に豊かな音が沁み込み、涌き出し、満ち溢れました。
 気づけば、少女の唇から懐かしい歌が零れ出ていました。



 唄を忘れた金糸雀(カナリヤ)は
 後ろの山に棄てましょか
 いえいえ それはなりませぬ

 〜中略〜

 唄を忘れた金糸雀は
 象牙の舟に銀の櫂
 月夜の海に浮かべれば
 忘れた唄をおもいだす

   西条八十作詞

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実はこっそり、童謡唱歌が好きなのです。
(同年代の友達に、そんな人はいません…)
シンプルなメロディーと、美しい歌詞が好きなのだと思います。
「夕空晴れて秋風吹き 月影落ちて鈴虫鳴く…」
「埴生の宿も我が宿 玉の装い羨まじ…」
「更けゆく秋の夜 旅の空の 侘しき思いに一人悩む…」
などなど、秋になると口ずさむことが多くなります。
でも、私が将来、おボケおばあちゃんになっても、一緒に歌ってくれる人は居ないんだろうなぁ…と思うと、ちょっと寂しいです。


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「白露」とは、なんて綺麗な言葉なんだろうと毎年思います。
明日は久しぶりの青空が見られるでしょうか。



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by bowww | 2017-09-07 21:50 | 作り話 | Comments(2)

心かたむく(処暑)

 智花(ちか)と暮らし始めて四年が過ぎた。
 食事は智花が作って、僕が後片付けをする。週末には僕がカレーなんかを作ることもある。
 洗濯は一日おきに、先に帰った方が洗濯機を回しておく。
 ゴミ出しは基本的に僕がやっているが、細かい分別は智花に任せている。
 時には喧嘩もしながら、それでもスムーズに日々を過ごすため、役割分担やルールを決めてきた。
 おかげで居心地のよい毎日が送れている。
「誠司たち、居心地がよすぎて結婚のタイミングが分かんなくなってるんじゃないか?」
 共通の友人たちに、時々そう言われる。
 僕たちは二人とも、あまり実家に寄りつかないせいもあって、家族に結婚を急かされることもない。
「ま、ぼちぼちでいいんじゃないかな、てさ」
 互いに忙しいながらも、仕事は充実している。
 帰れば、気持ちよく片付いた部屋に気心の知れたパートナーが居る。
 僕は今の生活にとても満足している。

『ごめん、今夜も遅くなりそう。誠司もどこかで夕飯済ませて来てもらえると助かる』
 そろそろ帰る支度を始めようとした時、智花からメールが来た。
 最近、彼女は残業が多い。
 同年代の女性の同僚たちが産休に入ったり、育児中だったりで手が足りないのだという。
「こういう時、独身だと都合良く使われちゃうのよね」
 今朝も朝食を食べながら、智花は軽く愚痴をこぼしていた。
「でも、それだけ智花が頼りにされてるってことだろ?キャリアを積むチャンスじゃん」
「キャリアねぇ…」と苦笑いして、智花はコーヒーを飲み干した。
『こっちはもう上がれるよ。たまには夕飯作っとく。リクエストある?』
 今朝の智花の様子を思い出して返信したが、忙しいのか返事は来なかった。

 作ると言っても、大してレパートリーはない。
 週末用に買っておいたカレーの材料を、前倒しで使ってシチューにすることにした。
 パン屋でバケッドを、スーパーでワインを買って帰る。
 智花の帰りが多少遅くなっても、このメニューならすぐに温め直して食べられる。
 洗濯機を回している間にシチューを作る。野菜や肉は細かく切れば、煮込む時間が短くて済む。
(家事のスキル、実は上がってるよな、自分…)などと思いながら、出来上がったシチューを一人で食べる。少し考えて、ワインは開けずに冷やしておく。

 洗濯物を干し終えて風呂にも入った後、智花がようやく帰ってきた。
「おかえり。遅かったね、お疲れさん」
 智花の目元がほんのり赤い。微かに酒のにおいがした。
「うん、課長の接待に付き合わされた。『若い子だと気が利かないからさ、頼むよ』だって。いちいち腹立つわぁ」
 そう言いながらも機嫌は良い。
「それなら飯はいらないよな。ワイン冷やしておいたけど、どうする?」
「赤?白?ロゼ?」
「白。チリの。安いけど美味かったやつ」
「じゃあ飲む。これと」
 智花は、ぶら下げていたビニール袋から、桃を二つ取り出して見せた。
「どうしたの?それ」
「果物屋さんの前を通った時、『桃が大好きなんです』って言ったら課長が買ってくれたの。付き合ってくれたお礼だって。でも二個だけ。どうせなら、一山買ってくれればいいのにね」
 今夜の智花はよく喋る。
 確か智花の課長は、仕事ができて厳しいけれど、面倒見がよいから部下からの信頼も厚いという人だったはずだ。
 着替えもせずにお喋りを続ける智花から、桃を取り上げる。
 甘く濃厚な匂いに噎せ返りそうになる。
「皮つきのままでいいよな?」
 水道の水を勢いよく流して、桃をゴシゴシ洗う。
「うん、いいよ。ありがと」
 智花は座って、ゆっくりとグラスを口に運ぶ。
「誠司も飲むよね?」
 刃を立てると、桃は果汁と香りを迸らせた。
 桃の産毛が手のひらにこびりついて、チクチクする
 智花のお喋りは続いている。


  白桃や心かたむく夜の方 石田波郷

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青空をほとんど見られないまま、八月も下旬になりました。
そのくせ、しっかり暑いのですからやりきれません。
少しでも日が射すと、トンボたちが盛んに飛び交います。
夜には虫の声。
せめて穏やかな秋になりますように。

桃が大好きです。
先日、スーパーで1箱、オトナ買いしました。
でも、ビンボーなオトナなので、ついケチって1箱1000円のものを選んでしまいました(ほかは1670円とか、2700円とか…)。
見事に失敗。。
美味しくない桃ほど、悲しい買い物はありません。
母親に「好物を買うときは、ケチっちゃ駄目」と笑われました。
子々孫々、家訓として伝えていきたいと思います…。

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畳2枚分ほどの庭は、父のフリースペースです。
朝顔、向日葵、マリーゴールド、黄色い薔薇、トマト、茄子が植わっていてカオスです。
それでも、今年は朝顔がきれいに咲いてくれました。
もう暫くは楽しめそうです。

 

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by bowww | 2017-08-23 14:06 | 作り話 | Comments(0)