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森の話(立春)

 くしゅん。
 森の熊の子は、自分のくしゃみで目を覚ましました。
 いつものように、お母さん熊のフカフカな腕の中に潜り込もうとして気がつきました。
 お母さんがいません。
「お母さん?」
 小さな声が、ほの暗い巣穴の中に響きます。
「お母さん」
 もう少し大きな声で呼んでみました。
「お母さん!」
 返事はありません。
 こんなことは初めてです。
 子熊はもう、どうしたらいいか分からず、穴の中で踞りました。
 どうしよう、どうしよう。
 喉が熱くなって、鼻の奥がツーンとして、涙がポロポロ零れてきました。
 でも、優しく慰めてくれるお母さんはいないのです。
 どうしよう、どうしよう。
 ぐうぅぅ!
 突然の大きな音に、子熊はびっくり。涙も止まりました。
 ぐるるるるぅ!
 どうやらそれは、自分のお腹から聞こえてくるようです。
「そうか、僕、お腹が空いたんだ」
 子熊はそっと辺りを見渡しました。
 穴の入り口から、光が射し込んできます。
 子熊はその光に誘われるように、穴の外へ顔を出しました。

 眩しい!
 子熊は目をシバシバさせました。
 外は一面真っ白。お日さまの光が反射して、眩しいといったらありません。
 熊の親子たちが眠っている間に、森は雪に覆われていました。
 子熊はクンクン、匂いをかぎました。
 お母さんの匂いがしないかしら。
 食べ物の匂いがしないかしら。
 ピクピク動く小さな鼻に、枝からほたり、雪の塊が落ちました。
「ひゃっ!冷たい!」
 子熊は飛び上がりました。
 見上げると、残りの雪の粒がキラキラと光りながら舞い落ちてきます。
 一羽のカケスが、枝から枝へと忙しく飛び回っていました。
「あの、こんにちは、カケスのおばさん」
「あら、珍しい。熊の子がこんな季節に一人でいるなんて。どうしたの?」
「あのね、僕のお母さん、知らない?目が覚めたら居なかったの」
 カケスは首を傾げながら子熊を見下ろしました。
 母熊はきっと、餌を探しに行ったのでしょう。
 でも、冬の森で、熊が食べられるものなんて見つかるわけがありません。
「巣穴の周りに、お母さんの足跡はなかったかい?」
 雪が積もった後に出掛けたなら、そう遠くには行ってはいないはず。
 でも、子熊は首を横に振りました。
 カケスは考え込んでしまいました。
「…そうだね、何か美味しいものをお土産に、もうすぐ帰ってくるんじゃないかい?」
 母熊はたぶん、餌を求めて人間たちの里へ下りたのです。
 無事ならいいのだけれど…。
「お家で待っているがいいよ。そうだ、ちょっと待っておいで」
 カケスは隣の木に飛んで行って、洞から幾つかのドングリを取り出しました。
 秋のうちに集めて隠しておいた、とっておきのドングリです。
「ほら、これをあげるからね」
「ありがとう!カケスのおばさん!でも僕、もう少しお母さんを探してみる」
「遠くに行くんじゃないよ、森を出てはいけないよ」
 カケスは子熊の後ろ姿を見送り、そっと頭を振りました。

 雪の森の中を、子熊はザクザク歩いて行きます。
 森は、眠りにつく前とすっかり様子が違っていました。
 秋の森は、木の実や茸の美味しい匂いで満ちていました。
 お母さんと、ドングリやサルナシをお腹いっぱい食べて、日向ぼっこして。
 今は冷たい雪が、すべてを隠してしまいました。
「お母さん…」
 また涙が溢れそうになります。
「おや?熊の子だ。どうしたんだい?」
 枯れた薮をヒョイッと飛び越えて、金色の狐が声を掛けてきました。
「こんにちは、狐さん。僕、お母さんを探してるの」
 物知りな狐は、すぐに何か思いついたようですが、尻尾を一振りして言いました。
「そうかい、ま、もうすぐ帰って来るさ」
 狐は薮の中に頭を突っ込むと、何かを咥えて子熊に見せました。
 野ネズミの死骸です。
「腹減ってるだろ、食うか?」
 子熊はちょっと後じさりしました。
 ネズミや虫は、まだ食べたことがなかったのです。
「やれやれ、じゃあ、これはどうだい?」
 狐は、昨日、森の外れの稲荷神社で見つけた油揚げを取り出しました。
 子熊は油揚げの匂いをかぐと、にっこり頷きました。
「ありがとう!狐さん!」
「人間の食べ物に慣れちゃいけないんだがな…」
 美味しそうに油揚げを平らげた子熊を見守りながら、狐は呟きました。
 昨日、稲荷神社に忍び込んだとき、狐は鉄砲の音を聞いたのです。
 何頭もの犬の吠え声も聞きました。
「あの子の母親じゃなきゃいいが…」
 再び歩き出した子熊を見送ると、狐のフサフサの尻尾がだらりと下がりました。

 お日さまはもうすぐ、向こうの山に沈みます。
 油揚げのおかげで元気が出た子熊でしたが、木々の間に忍び込む夜の色に気持ちが焦ります。
 その時、杉の大木の根元に、モクモクとした黒い背中が見えました。
「お母さん!」
 子熊は嬉しくて嬉しくて、全速力で駆け寄りました。
「…なんだ?坊主」
 お母さんではありません。
 雄の大熊でした。
 振り向きざまに、太い太い腕を振り上げました。
 大人の雄熊は縄張りを守るために、若い雄を叩きのめすこともあるのです。
 子熊はぺたりと尻餅をつきました。
「お母さんじゃない、お母さんじゃない」
 とうとう本格的に泣き出しました。
 困ったのは雄熊です。
「やい、坊主、泣くな。何もしないから泣くな」
 子熊は泣き止みません。
 雄熊は仕方がなく、子熊の背中をゆっくりポンポンと叩きました。
 昔々、自分が母親にしてもらったように。
 子熊はしゃくり上げながら、ようやく、お母さんが居なくなったこと、探しているけれど見つからないことを雄熊に伝えました。
 雄熊はゆっくり頷いて、
「もしかしたら、お前の母さんはもう戻らないかも知れない」
と言いました。
 子熊は何も言えずに、雄熊を見上げました。
「人間たちの里へ、餌を探しに行ったんだろう。
 そして、鉄砲で撃たれたか、罠にかかったかして死んでしまったかも知れない」
 雄熊は静かに、でも、しっかりと子熊の顔を見つめて続けました。
 子熊は泣くこともできず、息を止めて震えていました。
 雄熊はため息をつき、立ち上がりました。
「坊主、お前の巣穴まで送って行こう」

 大きな熊の後ろを、小さな熊がよたよたと歩いていきます。
 森に、群青色の深い深い夜が降りてきます。
 月はまだ昇りません。僅かな星明かりに、雪が青く冷たく光ります。
「…また雪が降るな」
 雄熊は空を見上げて言いました。
 墨色の雲が、すごいスピードで空を覆い始めました。

 子熊の巣穴は、やっぱり空っぽのままでした。
 雄熊は、まだたっぷり蜜が残っている蜂の巣を子熊に渡して言いました。
「さあ、坊主。春が来るまで、ゆっくり眠れ。
 春が来れば、お前は今よりもっと大きくなっている。強くなっている。
 目が覚めても母さんが居なかったら、俺を訪ねて来い」
 心も体も疲れきった子熊は、落ち葉と枯れ草で作った寝床に潜り込みました。
 まだお母さんの匂いがする。
 穴の外から、雄熊の太い声が聞こえてきます。
「お前には覚えなきゃいけないことが山ほどある。
 餌の探し方も、ケンカの仕方も、俺が全部教えてやる。
 だから春まで、しっかり眠るんだ」
 子熊はうつらうつらしながら、「うんうん」と頷きました。
 閉じた目に、涙が一粒、光ります。


 雪が降り始めました。
 天上から溢れ出した羽のような、大きな大きな牡丹雪です。
 子熊の巣穴は、すぐにすっぽりと雪に包まれました。
 まるでふかふかの布団を掛けたようでした。


森の話(立春)_b0314743_20323510.jpg


暦の上だけ、春がやって来ました。
とは言うものの、明日からまた、「数年に一度」の寒波に覆われるそうですね。
寒暖差が激しく、普段は雪と縁のないような地域も積雪が予想されるとか。
皆様、ご自愛くださいませ。

森の話(立春)_b0314743_20330352.jpg
母が、一度食べた豆苗の株を水耕栽培しています。
日当りが良い窓辺に置くと、続々と芽を伸ばし始めました。
美しい緑は微笑ましいのですが、正直言いますと、豆苗の青臭さがちょっと苦手です。。





 
 
 


by bowww | 2018-02-04 20:32 | 作り話


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