ひざまづく(寒露その3)

 ある日、お嬢様から一冊の本を手渡された。
「森田さんは、源氏物語を読んだことあるかしら」
「…漫画でなら…」
 お嬢様は「あらあら」と笑い声を上げた。
「原文の朗読は無理ね」
「いえ、普通の活字で書かれているなら、たぶん大丈夫だと思います」
「では、第十帖を読んでいただける?」
 恐る恐る本を開き、漫画で読んだストーリーと場面を必死で思い出す。
 第十帖は、源氏の君の年上の恋人・六条御息所が、自身の嫉妬心に耐えきれず、娘と共に伊勢へ下向することを決めて野の宮に籠っているところへ、源氏が会いに行くという場面だ。
「遥けき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり。秋の花、みな衰へつつ、浅茅が原も枯れ枯れなる虫の音に、松風、すごく吹きあはせて、そのこととも聞き分かれぬほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶なり。」
 気位の高い御息所を持て余し、自ら離れていったというのに、秋の野の宮の風情と心弱りした御息所の艶っぽさに、「やっぱり手放すのは惜しい人」と涙する源氏の君。
 血を吐く思いで諦めた若い恋人の涙を見て、心が揺れてしまう御息所。
 時々、つかえながらも何とか読み終えた。
 田上お嬢様は二度、三度ゆっくりと頷いてから、私に訊ねた。
「森田さんは、源氏物語はお好き?」
「…源氏の浮かれポンチっぷりに腹が立ちますけど。すぐに泣くし」
 思わず本音が出た。
 お嬢様は今度こそ、心底楽しいというように笑い声を上げた。
 口を覆う右手には、大きな翡翠の指輪がとろりと輝く。大きすぎて、細い細い指が折れてしまいそうだと、いつも少しだけ不安になる。
 サカキさんがドアをノックして、お茶の時間を告げた。

「えっ⁉︎ 森田さん、田上さんたちの話、信じちゃったの?」
 田上さんとの契約が終わり、朗読ボランティアの集まりに久しぶりに顔を出すと、会長の押尾さんが素っ頓狂な声を上げた。
「没落したお金持ちだか名家だかのお嬢様って教わったんでしょ?
 違うのよ、あのお二人ご夫婦なのよ」
 私は呆気にとられて押尾さんの顔を見返した。
「ごく普通のご夫婦なのよ、旦那さんは元サラリーマンで奥さんは専業主婦。確か息子さんが二人いたはずよ」
 数年前、奥さんが大病し、命は取り留めたけれど記憶が混乱する後遺症が残ってしまったという。
「きっと憧れだったのね、お嬢さまの生活が。
 旦那さんは奥さんがパニックにならないように、話を合わせてあげてるというわけ」
「あそこの旦那さん、なかなかの男前でしょ。若い頃は結構、奥さんを泣かせたみたいよ。仕事が忙しいから、家事も育児も任せっぱなしだったみたいだし…。
 介護大変ですねって声を掛けたら『罪滅ぼしと恩返しのようなものです』って」
 別の会員が押尾さんの声を聞きつけて口を挟み、噂話がどんどん広がっていく。
 私はトイレに行くふりをして席を離れた。
(騙された!)
 洗面台でじゃぶじゃぶ手を洗いながら、カーッと血が上った頭を冷やす。
 年寄りのおままごとに、疑いもなく巻き込まれた自分の間抜けっぷりが恥ずかしい。
 鏡の前に飾られた紫苑が目に留まる。
「…秋の花、みな衰へつつ…」
 西向きの窓から射し込む秋の陽射しが眩しくて目を細めた。
それにしても、サカキさんの紅茶は美味しかった。
何があったにせよ、今のお嬢様は、穏やかな夢を見ながら微睡んでいる。
 ほんの少しだけ、あの部屋のほの暗さを懐かしく思い出す。
  


  ひざまづく八千草に露あたらしく 坂本宮尾
 

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すっかり長くなりました、お付き合いありがとうございます。
秘密の小部屋、モデルは作家の森茉莉さんです。
唯一無比の美意識を頼りに集めた自分だけの宝物(他人から見れば完全なガラクタ)に囲まれて、薔薇色の夢を見ながら生きた人ですね。
今の断捨離ブームの対極にある暮らしぶり。
宝石箱のような言葉の数々は、何度読み返してもため息ものです。





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by bowww | 2017-10-10 11:07 | 作り話 | Comments(2)
Commented by 11hiyo at 2017-10-12 22:36
森茉莉さん、何度も読みました。
よくはわからない不思議感覚で
そのうち眠たくなってしまうんです。
物への終着なんて書いちゃたら怒られるのかもしれませんけれど
あれは一種独特の世界観だったなって思います。
断捨離なんて言葉を知ったら森さん何と仰るでしょうか。
Commented by bowww at 2017-10-14 01:55
> 11hiyoさま

高校生の頃、すっかりハマりまして、エッセイを何度も読み返しました。
独特の言葉遣い・文字遣い(本当に美しい若者は「嫩者」と書きたい。しかし、現在の日本には「若者」しかいない、とか…)がクセになりました。
貧乏だった学生時代、エッセイで読んだパセリたっぷりのオムレツを作ってみたり、幼児用の素朴なビスケットを買ってみたりして、一人悦に入っていました。
…本好き女子あるある、だと思います。
実際には、生活能力が完全に欠如した方だったみたいですね。
ベッドの下にキノコが生えても放置していたとかいないとか…。
「断捨離?本当に生活をシンプルに磨き上げたければ、幸田露伴にでも弟子入りすればいい」とでもおっしゃるんじゃないでしょうか?


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