春待つや(大寒)

「安田さん、落とし物…だと思いますけど…」
 内線の電話を取ると、総務の清水さんが遠慮がちにそう言った。
「え?財布?携帯?…は持ってるし…。俺、何か落としたかな?」
「…手がすいたら、ちょっと来ていただけますか?」
 清水さんのひそひそ声に、周りに聞かせるには憚れるもの、いかがわしいものでも落としただろうかと内心穏やかではない。
 すぐに行くと伝えて受話器を置いた。

 清水さんは社員通用口で待っていてくれた。
 何やら、困ったような笑顔で立っている。
 元々がおっちょこちょいな性格なので、入社以来、取引先との約束を忘れたり、電車に仕事道具を置き忘れたりといったミスは数知れない。さすがに最近は落ち着いてきたものの、総務部には迷惑ばかりかけている。
 特に、一年先輩の清水さんには何度も助けてもらっているから頭が上がらない。
「俺、何落としたんでしょう?」
 手招きする清水さんの後に従う。
 会社のすぐ隣は小さな公園になっている。気候が良い季節なら昼ご飯をここのベンチで食べる同僚たちも多いが、真冬の今では人影もない。日陰には三日前に降った雪がそのまま残っている。
 清水さんは、滑り台の裏側を覗き込んで頷き、俺を呼んだ。
「あれ、安田さんのじゃない?」
 清水さんの示す先に目を遣っても、雪に反射した陽射しが眩しくて何も見えない。
 シバシバと瞬きして目を細め、滑り台の後ろの雪溜まりを見つめた。
「…雪、ですよね?」
「雪の上に、見えない?」
 近づいてしげしげと見てみる。
 滑り台の影に重なって、一際濃い影が見えた。
「あれ?あの影、人の形に見えますよね?」
「呑気だなぁ、安田さん…。あれ、安田さんの形でしょ」
 俺は思わず吹き出す。
「いやぁ、雪の凹凸のせいでそう見えるだけでしょ?清水さん、想像力が豊か過ぎる」
「じゃあ、安田さんの影はどこ?」
 笑ったまま、俺は自分の足元を指差した。
 ……へ?
 ……ない。
 太陽は空高く、地面には木立や遊具、清水さんの影がくっきり落ちているのに、俺の足元だけはまっさらだ。
 足踏みしたり両手を上げて振ってみたりしても、地面には何も映らない。
「…どういうことでしょ、これ」
「安田さん、よくあそこで一服してるでしょ。その時に落としたんじゃない?」
 言われてみれば、雪が降り止んだ夜、満月があまりに綺麗だったから、滑り台にもたれて見上げていたのだ。
 帰り際、足元でビリッと紙が破けたような音がした気もする。
「凍りついちゃったってことですかね…。また、俺の足にくっつきますかね…」
 影がないと、本体はどうなるのだろう。
 今のところ、何の差し障りも思い当たらないのだが。
「どうかしら…。雪が溶けたら戻ってくるんじゃない?」
「そのまま蒸発しちゃって跡形もなくなったら?」
「とりあえず、影に体を合わせてみたら?」
 俺は影の形に添うように、滑り台にもたれてみる。
 清水さんが「もう少し右膝曲げて。腕はだらんと。頭は空に向けて…」と細かく修正してくれる。
「月の光の下じゃないと駄目かしら…」
「角度が違いますもんね」
 影と体を馴染ませるつもりで、しばらくその体勢をキープする。
 天気のよい昼下がりとはいえ、風が冷たい。いい加減、寒さで震え出した頃、我慢しきれずに体を伸ばしてみた。
 そろそろと右足を踏み出す。
 左足は高く上げてみてから踏み出した。
 影はしぶしぶといった風に、俺と同じ動きをしてみせた。
 清水さんに向かって、両腕で大きなマルを描く。
 足元の影は、一拍遅れてマルを作った。
 まだ本調子ではなさそうだ。
「やれやれ、清水さんのおかげで影を失くさずに済みました。ありがとうございます。
それにしても、よく俺の影だって分かりましたね」
「すぐ分かるわ。こんなおっちょこちょい、一人しか知らないもの」
 清水さんはくるりと踵を返し、会社に戻っていく。
 髪が風に煽られ、赤い耳と頬がチラッと見えた。
(…あ!)
 と、声を出す前に、影が一歩先に踏み出して俺より先に清水さんに追いついた。


春待つや一樹の影の紺を引き 井沢正江

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穏やかだったお正月が、もう追憶の彼方…。
夢でも見ていたんじゃないかしら?というほど、見事に寒中です。寒さの底です。
先日は二日続けての真冬日でした。
寒さの最中に降った雪は、平地でも極上のパウダースノー。
おかげで雪かきは楽チンでしたが、翌日の道路はスケートリンクのようでした。
かなり慎重に運転していたつもりですが、信号で止まろうとしてもブレーキが利かない利かない。
前に車がなかったので助かりましたが、まだまだ注意が足りませんね。
春が来るまで、本当に気をつけなければ。

写真はお正月飾りに入っていた(残りものの)柳の枝です。
日当りが良いキッチンの窓辺に置いておいたら、いつの間にか小さな芽がふくふくと膨らんでいました。
細い根まで出ています。
一足早く春を呼んでくれているようです。
このまま処分するのは忍びないのですが、かといって庭に下ろして枝垂れ柳の大木に育ってしまっても困ってしまうし…。
さてさて…。

先日、立川志の輔さんの独演会に行ってきました。
大きなホールいっぱいの観客。
その大観衆にたった一人で向き合い、大笑いさせて満足させる力量にただただ脱帽です。
志の輔さんがご自身で作った創作落語2題(古典落語かと思うほどよくできた「質屋暦」と、ゆるキャラを巡る爆笑ドタバタ劇「モモリン」)と、古典の大ネタ一題(廓噺の名作「紺屋高尾」)。
時間を忘れて大笑いさせてもらいました。
ただ、「紺屋高尾」は、全盛の花魁・高尾大夫の色気がちょっぴり足りなかった気がします。
志の輔師匠の真面目なお人柄のせいかも知れませんね。
落語も演劇もコンサートも、「生」で鑑賞できることはとても幸せです。
無駄遣いを控えて小金を貯めて(賢いお金の使い方は今年の密かな目標…)、出来るだけ多く、心に栄養がもらえる機会を増やそうと思います。




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by bowww | 2017-01-20 11:22 | 身辺雑記 | Comments(2)
Commented by 11hiyo at 2017-01-28 23:34
置き忘れた影に気づいてくれる素敵なパートナー
優しさを感じた一文でした。

さて今日の句会で牧水の話が登場しました。
それで丸善で牧水を買うかと書棚を覗いて
けっきょく買わずに帰った根性なしです。
Commented by bowww at 2017-01-30 00:17
hiyoさま。
こんばんは♪
大寒波が去ったかと思えば生温い陽気。
気まぐれなお天気に体がビックリしそうですね。

旅と酒の牧水さんですね。
浴びるように飲んで、息をするように詠った歌人。
…なぁんて言いながら、私も牧水さんの歌集は読んだことがないのです。
一人の作者の句集・歌集は、どうしても途中で飽きてしまう根性なしなのです…。
目利きが編んだアンソロジーを読むのが一番好きなのですが、これではなかなか読み手として深まらないですよね。
反省…。


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