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啓蟄その1

 慌ただしく仕事を片付けて、千春はスーパーに駆け込んだ。
 買う物を頭の中でリストアップして、最短で済むように売り場を回るルートを組み立てる。
 バナナにレタス、ジャガイモ、魚売り場は素通り、今日は鶏肉が安いからもも肉を買って、おっといけない、シチューのルー。牛のすね肉が二割引だ、買っておいて週末に煮込もう。あとは牛乳と納豆。
 総菜コーナーで、少し後ろめたい気持ちでひじきの煮物と唐揚げをカートに入れた。
 子供が小さいうちは手作りのものを食べさせたかったが、仕事をしているとなかなか適わない。夫の直也が、「無理しなくていいよ。やれる範囲でいこう」と言ってくれたから、出来合いの総菜がテーブルに並ぶことも増えた。
 レジに並びながら、(週末はちゃんと作るから)と心の中で家族に謝った。
 夕方のレジは混んでいる。千春の前には五、六人並んでいた。
 見るともなくほかの客の買い物かごを眺める。あの家は今夜は鍋かな。こちらは肉じゃが?牛丼? 千春と同じぐらいの年頃の女性客のかごに唐揚げを見つけて、仲間にエールを送る気持ちになる。
 二人前の男性客のかごには、焼き鳥とビール、スナック菓子が入っていた。
 一人暮らしかな。今夜はこれだけで済ますのかな。
 背中を見れば、きちんとクリーニングしてあるらしいダークグレーのスーツを着ている。
 列が進み、男性の順番が来た。
 横顔を見て、懐かしい名前が不意に浮かんだ。
「…加治君」
 中学校の同級生の加治君だ。明るくてスポーツ万能の人気者だった。左頬に、幼い頃にやんちゃをして作ったという小さな傷跡がある。
 切れ長で涼しげだった目元には小さな皺ができていた。
 千春は声を掛けようとして思いとどまった。
 仕事帰りで髪はボサボサだし、メイクもほとんど落ちている。
 先日、娘の明菜に「ママはなんでおしゃれしないの?きれいなママがいい」と無邪気に言われたことも思い出した。
 俯き加減で買い物かごをレジの台に置き、精算を待っている間に、加治君は千春に気がつく様子もなく出て行った。
 後ろ姿を見送って、そっとため息をつく。

 結婚したことも、まして明菜を生んだことも、後悔したことなど一度もない。
 懸命に仕事をして、もしかしたらこのまま一人かも知れないと覚悟を決めた頃、直也と出会った。
 千春の考え方を尊重し、出産後に仕事へ復帰するときも全面的に応援してくれた。
 周りから羨ましがられるし、千春自身もとても恵まれていると感謝している。
 だが、以前と同じようには働けない。
 なりふり構わず働く同僚や、着実に成長している後輩たちを見ていると、限られた時間でしか働けない自分が歯がゆくなる。
 入社以来こつこつ築いてきたキャリアが、さらさらと手の平から零れていくような焦り。
 毎日、後ろ髪を引かれながら、保育所へ明菜を迎えに行くために職場を後にする。
「ママはおしゃれする元気残ってないよ」
 すっかり春の装いになった街のショーウィンドーを横目に、千春は小走りで保育所に向かう。

 スーパーに寄る日だけは、帰る前にメイクを簡単に直し、髪を整えるようになった。
 会社の女子トイレで鏡を覗き込み、淡いローズの口紅を引き直す。唇に色を乗せるだけで、疲れた顔が生気を取り戻す。
「誰に会うか分からないもの」
 自分の言い訳めいた独り言に苦笑が漏れる。
 あの日以来、加治君には会っていない。
 スーパーに行く度に、会えるかと微かに期待し、会えずにほんの少しだけがっかりし、同じだけ安心した。


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作り話、長くなりますので二回に分けて更新します。
取り急ぎ(最近、この台詞が多い。。)、前半部分を。
後半部分は明日のうちに。 
 
写真は何年も前に撮ったテントウムシです。
日付を見ると3月16日。
今年は急に暖かくなったから、虫たちも大忙しでしょうね。

by bowww | 2016-03-05 10:13 | 作り話


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