『おおつきピアノ教室』と書かれた木札が、木枯らしにパタパタ煽られている。 叶恵(かのえ)は横目でそれを見て、ため息をついて門をくぐった。 櫻子先生に、「あの札、ちゃんと留めとかないと。飛んでっちゃうし、うるさいです」と何度も言っているのだけれど、先生はいつも目を丸くして、「そうでしたそうでした。私、忘れていました」と頷くと、それきり忘れてしまうのだ。 玄関の重い木の扉を開けると、たどたどしいメヌエットが聴こえてくる。 (上田さんの奥さんも、なかなか上達しないな) 櫻子先生のモットーは、「ピアノは(音楽は)、人生の特効薬」。 教室には、幼稚園ぐらいの子供たちか、上田さんのような大人の生徒しか通っていない。 コンクールに出たり、音楽大学を目指したりする若い人たちにとっては、櫻子先生のレッスンでは物足りないのだ。 唯一の高校生である叶恵にしたって、幼稚園の頃から通っているのに、ショパンのノクターンがやっと一曲弾ける程度だ。先生からは「そろそろ次に弾きたい曲を決めましょう」と言われている。 叶恵はいつものように、控え室で塾の課題を広げて順番を待った。 部屋の隅には小さなシンクとガスコンロが備え付けられていて、教室の生徒たちは好きなようにお茶やコーヒー、紅茶を淹れられる。年代物のカップボードには、それぞれが持ち込んだ自分用のマグカップや茶碗が雑然と並んでいた。 そのカップボードも、大分寂しくなってきた。 子供たちが減って、お年寄りの生徒は一人、また一人と来られなくなっていく。 ぼんやりとカップを眺めていた叶恵は、上田さんのピアノの音が止んだことに気付いて、慌ててやかんを火にかけた。 よく沸騰させて、温めておいたティーポットに勢いよく注ぐ。紅茶の葉がポットのなかでグルグル回りながらほどけていくのを見届けると、ティーコージーを被せた。 先生のお茶の準備完了。 ところが、いつもならちょうど紅茶が飲み頃になったタイミングで顔を出す先生が、今日はなかなか戻って来ない。 これ以上待ったら渋くて飲めなくなってしまうと、叶恵はそっとレッスン室の扉をノックした。 「…はい、今行きます」 先生と上田さんが、連れ立って出て来た。 上田さんの目が赤い。泣いていたのかも知れない。 叶恵は自分のマグカップを片付けると、ティーカップを二つ用意して紅茶を注いだ。 櫻子先生は「ありがとう」というように叶恵に微笑むと、少し出過ぎた紅茶に、ミルクと角砂糖を添えて上田さんに勧めた。 叶恵はテーブルに広げていた参考書を片付けて、レッスン室に引っ込んだ。 「子」はなくてもいいんじゃないのかな。 初めて母親に連れられて櫻子先生の教室を訪れた時、叶恵はまずそう思った。 大槻櫻子。「さくら」だけで名前として十分なのに、「こ」が多い。 背が高い櫻子先生を見上げて、叶恵は正直にそう言った。 櫻子先生は、少し首を傾げて「なるほど…」と呟いた。 「確かに余分かも知れません。取ってみましょうか」 オオツキサクラ、オオツキサクラ、オオツキサクラ…コ、サクラ、サクラコ……。 先生は暫く繰り返して、ぴたりと口を閉じた。 「ごめんなさい、叶恵さん。私、もう五十年近く『サクラコ』でしたので、『サクラ』では駄目みたいです。 『子』を取ると、違う人になってしまいそうです」 「そっかぁ。そうだよね、私だって急に『カノ』って名前になったら変な気持ちだもん」 先生はにっこり笑うとピアノの前に座った。 「叶恵さんの名前にぴったりの曲があります。『カノン』という名前なの」 先生の大きくて骨張った指が、鍵盤の上をゆったり動いて、優しい和音を奏でる。和音と和音が追いかけっこするような旋律に、叶恵は嬉しくなって繋いでいた母親の手をぎゅっと握った。 櫻子先生は叶恵の顔を見て、もう一度微笑んだ。 「では、まずはこの曲が弾けるように練習してみましょうか」 叶恵は大きく頷いて、その日から教室の生徒になった。 レッスン室の真ん中には、黒々と光るグランドピアノがある。 壁際には古びたアップライトピアノがあり、普段のレッスンにはこちらを使う。 叶恵はアップライトの前に座って蓋を押し上げた。微かに埃っぽい匂いがする。 窓から冬の弱々しい光が射し込み、象牙色に黄ばんだ白鍵に影を落とす。 久しぶりに、パッヘルベルのカノンを弾いてみた。 この曲なら間違えずに弾けるから、先生と上田さんの話の邪魔にもならないだろう。 (ピアノ教室というより、人生相談室かも…) 鬱ぎ込んで入ってきた生徒が、レッスンを終えると少しだけ元気を取り戻して帰っていく。 以前、叶恵は「先生はカウンセラーみたいなものですね」と言ったことがある。 先生はきっぱりと首を横に振って、 「私の手柄じゃありません。音楽は人生のお薬なのよ」と答えた。 (それなら先生は、優秀な薬剤師さんというところかな) カノンをゆっくり三回弾いたところで、先生がレッスン室に入ってピアノの横に立った。 「叶恵さん、カノンはちゃんと弾けているから、今度はショパンにしましょうか」 「今日は先生のピアノを聴きたいです」 櫻子先生は、「そうやって練習をさぼるんだから…」とぼやきつつも、背中の真ん中まである長い髪を無造作に束ねた。 白髪が大分増えたけれど、まだまだ豊かな髪だ。 グランドピアノの蓋を開けて、少し首を傾げて考えて、「うん」と頷いて弾き始めたのはガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」。 ぐんぐん自由に、野放途に音が広がっていく。長い指が鍵盤を叩きつける。ピアノ一台だけのはずなのに、オーケストラが後ろで響いているようだ。 弾き終わって軽く汗ばんでいる先生に、叶恵は、 「…上田さんのお話、重たかったんですか」と声を掛ける。 櫻子先生は、照れくさそうに笑った。 「憂さ晴らしをしてしまいました。ごめんなさい」 そっとピアノに触れて、謝っている。 「音楽は特効薬だから、いいと思います。聴いている私にも効きました」 「叶恵さんには、聴くだけではなく弾いてもらいたいんですけど…」 「あ!塾に遅刻しちゃう!」 叶恵は大袈裟に慌てて、レッスン室を抜け出した。 外はもう青く黄昏れ始めている。 叶恵を送り出すように、玄関の門灯がポッと灯った。 大雪=12月7日〜21日頃 初候・閉寒成冬(そらさむくふゆとなる)次候・熊蟄穴(くまあなにこもる)末候・鮭魚群(さけのうおむらがる) クラシックの知識は(音楽全般の知識は)、マンガ「のだめカンタービレ」に、かろうじてついていける程度。 ピアノはバイエル止まりです。 クラシックのコンサートには何度も行っていますが、とても気持ちよく眠りこけてしまうという体たらく…。 ので、知識が浅くて駄目ですね。。 にも関わらず、櫻子先生と叶恵さんの作り話、少し続けたいと思います。 写真は長南芳子さんというアクセサリー作家さんの作品です。 物語を秘めた雰囲気の作風が好きで、以前から小さなネックレスなどをちまちま集めています。 今回の個展のテーマは「積もりゆく時間」。 遺跡から発掘した遺物のような、海の底から引き上げたような作品ばかりでした。 古びた静けさを纏いながら、凛とした存在感。金属でさえも、やがて土や水に還ってゆく遠い時の流れ。 どれも密やかに来歴を語り出しそうな作品でした。 身につけるというより、宝物として隠しておきたい…。 隠しておきたいけど、「見て見て!」と自慢もしたくて、写真を載せてみました。 次回は22日「冬至」に更新します。 一年のうちで一番夜が長い頃。そしてセカセカと気忙しい季節ですね。 心が荒まないように、一つ一つできるだけ丁寧に片付けていこう。 …って、毎年思ってはいるんですけれども。。
by bowww
| 2015-12-07 09:52
| 作り話
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