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小雪

 大学を卒業して故郷の街に帰り、地元の企業に就職した。
 入社した年の冬、上司が一人、定年を迎えて退職した。
 花束を抱えて深々と頭を下げる上司を見て、定年まで働くのはどんな気持ちなんだろうと、ぼんやり思っていた。
 いずれにしても、その日は晴れているといい。
「無事之名馬(ぶじこれめいば)。どうか皆さん、体を大切に」
 その後、何人もの先輩たちを見送ったが、あの日の上司の言葉だけが何故か心に残っている。
 当時は「『事なかれ』を貫いた哀しいサラリーマンの台詞だな」と思った気がする。
 若気の至りも、今になれば懐かしい。

「お腹だけは重役クラスね」
 姿見でネクタイを直す私を覗き込んで、妻が笑う。
 この数年で、腹回りがぐっと膨らんだ。叩けばなかなか良い音がする。
 健康診断で指摘され、家族にも笑われ、自分でも危機感があったから、出来るだけ歩いたり晩酌も控えたりしたのだが、一向に引っ込まない。残りの人生、この腹との共存共栄を選ぶしかなさそうだ。
「腹だけで悪かったな」
「そうねぇ。まぁでも、奥さま同士のお付き合いって大変そうだから、私はこれぐらいでちょうど良かったわ」
 妻の笑い声を背に靴を履く。今日もきれいに磨かれている。
 万事がおおざっぱな彼女だが、どういうわけだか靴磨きだけは手を抜かずにやってくれた。
 馴染んだ革靴の紐を結んで玄関のドアを開ける。
 どんよりとした曇り空。昨夜からの雨がまだ上がりきっていない。
「今夜はビール解禁でしょ?」
「いや、日本酒の方がいいな」
「あら、それじゃあ肴は何にしようかしら。おあげがあるから、納豆詰めて炙っとくわね」
 残り物でいいさ、と手を振って家を出た。

 通い慣れた道を通って会社に向かう。
 電車の吊り革に掴まった時、コートの袖口が僅かに擦り切れていることに気がついた。
 そろそろ新調しなければ…と思いかけて、スーツに合わせたコートはもう必要ないのだったと苦笑する。
 今日が最後の出勤日だ。
 四十年近く通い続けた会社に、明日からは用がなくなる。
 あらためて言葉にしてみなくては実感が湧かないのだが、最後の日だと思った途端、スーツもコートもずしりと重くなった。こんな窮屈な格好で人生の大半を過ごしてきたのかと不思議に思えてくる。
 駅に着いて、勤め人の波に飲まれたまま改札口から押し出される。
 その流れから脇へ逸れて、いつもの喫茶店に潜り込んだ。
 コンビニとファストフード店の間、雑居ビルの二階に喫茶店があると気づいたのは三十歳になったばかりのことだった。
 仕事でトラブルが続き、同僚や上司とも噛み合ない日が続いていた。
 会社に行きたくないと鬱々していた或る朝、喫茶店の階段を見つけたのだった。
 すっかり色が褪せて擦り切れたビロード張りのソファや、がたつくテーブル。ギシギシ軋む床。
 カウンターの中には愛想がない夫婦。
 一瞬、失敗したかと思ったが、座ってみればテーブルごとに小さな花が生けられ、シュガーポッドはピカピカに磨き上げられていた。大きな窓ガラスにも曇りがない。
 そして、コーヒーはとびきり美味かった。
 温かいコーヒーを飲み終わる頃には、頭の中がじんわり整っていた。
 以来、電車を何本か早めて、仕事前に喫茶店に寄るのが日課になった。
 店主夫妻は変わらず無愛想なままだったが、天気の話程度の会話は交わすようになった。
 今日も朝の挨拶だけして、いつものコーヒーを飲む。いつものように新聞の一面から経済面、社会面にだけざっと目を通してから席を立つ。
「…これ、どうぞ」
 レジで奥さんがぶっきらぼうに渡してくれたのは、十一枚綴りのコーヒーチケットだった。
「でも、私は今日で…」
 退職のことは、話のついでに一週間程前に伝えてあった。
「また来てください。それ、期限ないですから」
 マスターが洗い物を片付けながら言った。
 奥さんが頷く。
 ああ、また「ご褒美」だ。
 窓の外に目を遣ると、不機嫌な巨人が重たい瞼をようやく開けたように、ぽっかりと青空が覗いていた

 四十年は、あっという間だった。
 上の意向にさほど忠実ではなかったし、かと言って頭抜けた才能がある優秀な社員でもなかった。
 仕事をしていれば、もちろん楽しいことばかりではない。むしろ悔しいこと、理不尽なことの連続だった。
 その度に腹を立て、地団駄踏んだ。自分の力不足に歯噛みした。
 辞表を叩き付けて会社を去ることを何度も思い描いた。
 そういう時に限って、神様(のような存在)は気まぐれに「ご褒美」をくれるのだ。
 それは、気難しい顧客のあたたかい労いの言葉だったり、若い部下が黙って淹れてくれたコーヒーだったりした。
 小さくて笑ってしまうような「ご褒美」に釣られて、結局、定年まできてしまった。
 振り返れば、本当にあっという間だ。

 いつも通りに仕事を片付け、帰宅しようと身支度を始めると、皆が手を止めて立ち上がった。
 部長に促され、退社の挨拶をする。
 言いたいことはたくさんあったはずなのに、
「どうか、健康には十分注意して頑張ってください。ありがとうございました」と、結局は平凡極まりない挨拶になった。
 それなのに、拍手は盛大だった。
「…俺が居なくなるのが、そんなにめでたいのか?」
「ええ。この後、皆で祝杯あげます」
 ニヤッと笑った元部下は、そのままクシャクシャと涙を零した。

 大きな花束が照れくさい。
 会社を出たところで、妻からメールが入った。
「見よ!奮発!」
 添付画像には、蟹鍋が写っていた。
「ただし、お酒は自分で調達してきてね」
 ならば、こちらも奮発して、大吟醸を買って帰ろう。




小雪=11月23日〜12月6日頃
初候・虹蔵不見(にじかくれてみえず)次候・朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)末候・橘始黄(たちばなはじめてきばむ)



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職場の大先輩が定年を迎えられました。
まだ職場に残ってくださるのですが、まずは一区切り。
心からの感謝や「これからも御指導お願いします」の気持ちを伝えたいなぁ…と思っていたのですが、どうやら皆、思うところは一緒だったようで、こぢんまりとした慰労会が何件もあった様子です。
オフィシャルな会ではなく、その先輩とゆっくり話したいという人たちが多かったんですね。
肩書きに関係なく、お付き合いを続けたいと思わせるお人柄なのだと思います。
肩書き以外に、なぁ〜〜んにも取り柄も魅力もないオジサマが多うございますのにね。
…いけないいけない、師走が目前で追いつめられた気分になって、やさぐれ発言をしてしまいました。
とにかく、今月のうちに年賀状のデザイン(毎年、消しゴムはんこで作るのです)を決めてしまおう。。
仕事の年末追い込みとか、その後で考えよう。。
クリスマスソングが聞こえ始めると、耳を塞いで奇声を発したくなります。。


次回の作り話は、12月7日「大雪」に更新します。


by bowww | 2015-11-23 10:18 | 作り話


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