寒露

 堅い椅子に長時間座っていたから腰が痛い。
 静流(しずる)さんは映画館の外に出て、ぐっと伸びをしました。
 外はすっかり日が暮れています。
 家へ帰る人、会社に戻る人。道行く人は皆、急に冷たくなった風に肩を竦めて足を速めます。
 秋の灯点し頃は特に気が急くものです。
(待つ人も用事もない身は気楽なものだわね)
 静流さんは、用心のために持ってきた薄紫色のストールを肩に巻きつけました。
 一粒パールのピアスとこのカシミヤのストールは、顔色を明るく見せてくれるので重宝しています。ピアスの穴は昨年、思い切ってショートヘアにしたのをきっかけに開けました。
 気忙しい街の中を、静流さんはことさらのんびり歩きます。
 今日は朝から掃除洗濯を片付けました。観てきたイタリア映画も、評判通りしみじみとした良い作品でした。
 文句なしの休日です。平日に休めたのは久しぶりです。
 お茶を飲んで帰ろうか、それとも軽く夕飯を済ませておこうか。
 迷いながらブラブラ歩くうちに、顔なじみのビストロの前に来ました。
 窓からはオレンジ色の明かりが漏れ、美味しそうな匂いが店の外まで漂ってきます。
 静流さんはほとんど反射的に、店のドアを押していました。
 オーナーの奥さんが笑顔で迎えてくれます。 
 カウンターの隅に座った時には、ワインを一杯だけ飲もうと決めていました。

 静流さんは、姿勢が良いとよく褒められます。
 一人で食事をする時は特に、首筋がすっきり伸びるように気をつけます。
「五十過ぎの女が一人、背中を丸めてご飯を食べてたら、あまりにもみじめでしょ」
と、静流さんは笑って答えるようにしています。
 レバーがたっぷり入った自家製のパテと、チーズとジャガイモのキッシュで、赤ワインをゆっくり飲みます。
 お腹が空いていたので、ワインの酔いが心地好く広がります。
 店内は程よく混んできて、静流さんは楽しげなざわめきを背中で感じていました。
「お父さんがフランス料理のお店だって言うから、私、すごく緊張していたのよ」
「思っていたより気軽な感じだろ?」
 後ろのテーブル席には、静流さんと同じぐらいの年齢の夫婦が座っていました。
 どうやら夫婦二人だけの食事は久しぶりのようです。
 静流さんは何となく微笑ましく思えて、二人の会話に耳を傾けていました。
「お父さんがこんな素敵なお店を知ってるなんて…」
「昔々の彼女に連れて来られたのさ」
「はいはい、それはようございました」
 奥さんは機嫌良く笑い声を上げました。
「俺にだって、そういう華やかな思い出が一つや二つあるんだよ」
 旦那さんも笑って答えます。
 静流さんの手が止まりました。
 この笑い声、知ってる。

 二十年前、静流さんには五年間付き合っていた恋人がいました。
 あの映画館で映画を観て、この店で食事をするのがデートの定番でした。
 その彼に、三十歳になる直前にプロポーズされました。
 互いの家族にも挨拶を済ませていたし、友人たちも二人は結婚するものだと思っていました。
 もちろん静流さん自身も。
 でも、土壇場で静流さんは断りました。
 仕事がちょうど面白くなってきた時期でした。上司に認められ、任される仕事が多くなっていたのです。
 結婚より仕事を選ぶのかと、両親からは当然こっぴどく叱られ、友人たちからも呆れられました。
 以来、何度か恋はしましたが、結婚には至りませんでした。
 たぶん、二十年前にずれてしまったタイミングが、そのままずっとずれたままなのでしょう。
  
 今、背中合わせに座っている彼のことはすっかり忘れていました。顔もおぼろげです。
 でも、笑い声で思い出しました。
 いつも静流さんを笑わせてくれる人でした。
 二人の会話で、一人息子が大学生であること、彼のお母さんがつい先日亡くなったこと、犬を飼っていること、彼は少し血圧が高いことが分かりました。
 犬は嫌いだと言っていたのにな。
「メインは何にします?今日の魚はスズキです、お好きですよね?」
「ごめんなさい、お腹いっぱいになっちゃった。今日はこれで…」
 忙しい合間に顔を出してくれたシェフに詫びながら、静流さんは席を立ちました。
「じゃあ、これデザート」
 レジで会計を済ませると、そっと小さな箱を渡されました。きっとタルトタタンです。
 小さな声でお礼を言って、静流さんは店を出ました。
 窓から、彼と奥さんが見えました。
 窓越しに、彼と一瞬目が合ったような気がしましたが、彼の表情は変わらず、静流さんの気持ちも平らなままでした。
「年取ったなぁ」
 静流さんは声に出して言ってみました。
「年取ったよなぁ」
 もう一度言ってみました。
 タルトタタンが、思いの外、持ち重りします。
 静流さんは、ぐっと背中を伸ばしました。

 椅子が堅くて通路が狭く、冬はコンクリートの床から冷気が這い上ってくるあの古い映画館は、今月末には閉館して取り壊されます。
 跡にはマンションが建つのだそうです。




寒露=10月8〜23日頃
初候・鴻雁来(こうがんきたる)次候・菊花開(きくのはなひらく)末候・蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)



b0314743_02490302.jpg

私の住む街のお隣の市は、映画館の多い街でした。
地方都市なのに、ロードショーがかかる映画館が3つ、4つあったのです。
小さなスクリーンではありましたが、少しマイナーな作品をちゃんと上映してくれる映画館もありました。
子供の頃はアニメ映画(主にドラえもんですね)、「南極物語」や「ET」(トシがばれる…)なんかを観に連れて行ってもらいました。
高校生の頃は、友達と授業をさぼって忍び込んだり、格好つけて一人でマイナーな映画を観に行ったり。
もともと客足は落ち込んではいたのでしょうが、郊外型のシネコンの台頭がトドメだったのだと思います。街中(まちなか)から一気に映画館が姿を消しました。
熱心な映画ファンではないけれど、寂しいことだなと思います。
人と同じように街も生きているのだから、「変わってくれるな」と願うのは勝手な言い分ではありますが…。

暦通りに、今朝は今シーズン一番の冷え込みでした。
明け方、東の空に、細い三日月と明けの明星が見えました。
空が冴え渡る季節になったのですね。
年賀状の話題が出始めました。
視界の端に「年末・年の暮れ」がチラチラし始めています。
うわぁぁぁ。。


次回の作り話は10月24日「霜降」に更新します。




[PR]
by bowww | 2015-10-08 10:21 | 作り話 | Comments(0)


<< 早起きのご褒美 ドングリころころ >>