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第二十九候・菖蒲華

【前回からの続きです】


 重い…アンジェロ、重い。
 その上、熱い。
 長い毛のせいで嵩が大きく見えるだけかと思っていたが、中身もずっしり詰まっているらしい。
 気温も湿度も高い中で、毛皮を着た湯たんぽを抱いているようなものだ。
 家が建て込み、狭い路地は息苦しささえ感じる。
 男の子が僕の荷物を持とうと言ってくれたが、彼の細い腕と小さな手を見てしまうと頼む気にはなれなかった。
 「すぐ近く」と言ったが、さっきから十分以上は歩いている。
 兄の家に荷物が届くはずの時間が迫ってきて、内心焦り始めていた。
 遅れるかも知れないと兄にメールを送っておこうか…と思ったとき、男の子が「ここです」と一軒の家に駆け込んで行った。
 この家も古い。モルタルの壁が煤けて屋根の瓦も重たげだ。
 庭の木々もだいぶ大きい。
 色づき始めた紫陽花が、生け垣代わりに植わっている。庭の奥の方で、てりてりとした若葉を茂らせているのは柿の木だろうか。たわわに実った梅の木もだいぶ古そうだ。
 ところでアンジェロ、もう降りてもいいんだが…。
 どういうわけだか、僕の腕の中で寛いでいる。
 男の子の呼び声で、廊下の奥から誰か出てきた。
 ほっそりとした足がショートパンツから伸びている。着古したTシャツ、刈り上げ寸前のショートヘア。
 男の子とそっくりの大きな目が、警戒心を込めて僕を見つめた。
「お姉ちゃん、このおじさんがアンを捕まえてくれたんだよ」
 彼女はアンジェロを見て、もう一度、僕を見た。
 僅かに警戒は解けたようだが、にこりともしないまま頭を下げた。
「アン、こっちにおいで」
 タヌキ猫は、「どっこいしょ」というように玄関の上がり框に飛び降りた。そのまま腹這いになって、毛繕いを始める。
「おじさん、道に迷ったんだって。○○っていうアパートに行きたいんだって。お姉ちゃん、知ってる?」
 お姉ちゃんは首を傾げた。
 大きなマンションでもない限り、アパートの名前なんて分からないだろう。
 僕は手短かにアパートの壁の色や、周りに何があるか説明した。
「…それなら分かるかも」
 男の子に「ほら、△△君の家のすぐ近くに…」と言うと、男の子は「ああ!」と頷いた。
「だったらおじさん、全然、逆方向に歩いてたよ?」
 よく似た瞳が二組み、同じように憐れみを湛えて僕を見つめた。
 …大人だって、時々、迷子になるんだよ。
 男の子が早速、「案内するね」と駆け出そうとすると、お姉ちゃんが引き止めた。
「ちょっと待っててください」と呟くと、奥の台所らしき部屋に引っ込んだ。
 ガラスが触れ合う音、氷の音が聞こえる。
 程なくして、小さな盆にグラスを乗せて戻って来た。
「…どうぞ」と、ぎこちなく差し出される。
 琥珀色の飲み物と氷が満たされたグラスが、火照った手のひらに気持ちがいい。
 遠慮なく頂く。
 甘酸っぱい飲み物が、さらさらと喉を流れ落ちた。汗がひく。
「それ、梅ジュースだよ。庭の梅で作ったシロップ。死んだおばあちゃんが、去年作っておいたとっておきだよ」
 あっという間に飲み干すと、男の子が自慢そうに教えてくれた。
 その時、家の中を風が通り抜けた。
 薄荷の香りがする。
「気持ちいいなぁ!」
 突然、年老いた男性の声が響いた。
 お姉ちゃんが庭に面した部屋に入っていく。
「おじいちゃん、よく寝たね。喉渇いてない?少し体起こしてみようか」
 話しかける口調は、とても優しい。
 そうか、昼間は彼女が小さな「女主(あるじ)」なんだ。
「そうだ、おじさん、ちょっと待っててね」
 靴を脱ぎ散らかして、男の子も台所に駆け込む。
 再び玄関先に戻ってくると、白い濡れタオルを渡してくれた。
 おしぼりらしい。
 広げると薄荷の匂いが広がった。
 ミントの葉が仕込んである。
 アンジェロがクスンと鼻を鳴らして、のそのそと立ち去った。
「おばあちゃんが、お客さんが来るとこうしてたんだ」
「庭にいっぱい生えてるから、お茶にしたり、お風呂に入れたりもするの」
「僕、お茶は嫌い」
 姉弟が交互に説明してくれる。
「もしかして、アンジェロのシャンプーにも使う?」
 二人が頷いた。
 たぶん、本人はあまりミントもシャンプーも好きじゃないんだろう。ミントの香りで察して逃げ出したに違いない。
 もう一度、薄荷の風が抜けた。
 古くても、風通しがいい家らしい。
「薄荷、いい匂いなのにね」
 お姉ちゃんがクスクス笑う。
「おじいちゃんも『薄荷』って言うよ」と男の子も笑う。
 …おじさんじゃないと訂正したかったのに、完全にタイミングを逸した。

 兄の部屋で無事に荷物を受け取り、冷蔵庫の中身を確認する。
 カルビが1パック。それも和牛。
 よし。それなら、設定までやってやる。
 テレビが映ってビールが冷えた頃、兄が帰ってきた。
 二人で肉を焼き、ビールを開ける。
 お腹も気持ちも満たされた頃、兄が僕の胸辺りを指さして
「ところで、毛だらけなんだが?」と言った。
 アンジェロの毛だ…。
 仕方がなく、道に迷って姉弟に助けてもらった顛末を話す。
「お前、もう一度、ちゃんとその家に辿り着けるか?」
 兄がにやりと笑って、手早くテーブルを片付け始めた。
 失礼な。
 タヌキ猫用のブラシでも手土産に、近々、寄ってみようと思う。


    六月を奇麗な風の吹くことよ   正岡子規



〜菖蒲華(あやめ はな さく)〜



第二十九候・菖蒲華_b0314743_12135601.jpg

学校の国語で教わった俳句や、授業で覚えさせられた百人一首の歌は、今でもふと口ずさんだりします。
じめじめした梅雨時、スイッと軽やかな風が流れると思い出すこの句は、子規が大喀血した直後に詠まれたものだとか。
暑い最中の涼風や、春先の日溜まりなどに出会うと「恩寵」という言葉が浮かびます。
ありがたやありがたや…と、おばあさんみたいに手を合わせたくなります。
生死の境を彷徨い、辛うじて此岸に戻ってきた子規が、深呼吸のようにして呟いた句なのかな、と想像します。
「奇麗な風」を書きたかっただけなのに、長くなってしまった。。

写真はハナショウブです。
私、アヤメ、カキツバタ、ハナショウブの区別が曖昧ですが、私が好きなのはどうやらアヤメのようです。
5月頃、草地などですっきりと潔い濃紺の花を咲かすのがアヤメ。
江戸前の粋な芸者さんのようだな、と思います。
東京の根津美術館は、庭のカキツバタが咲く頃に、尾形光琳の「燕子花図屏風」を公開します。
一度は行ってみたいと思っています。
海の旬はカンパチなどなど。
山の旬は茗荷、オクラなどなど。


次回は7月2日「半夏生」に更新します。




by bowww | 2014-06-27 12:15 | 七十二候


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