重い…アンジェロ、重い。 その上、熱い。 長い毛のせいで嵩が大きく見えるだけかと思っていたが、中身もずっしり詰まっているらしい。 気温も湿度も高い中で、毛皮を着た湯たんぽを抱いているようなものだ。 家が建て込み、狭い路地は息苦しささえ感じる。 男の子が僕の荷物を持とうと言ってくれたが、彼の細い腕と小さな手を見てしまうと頼む気にはなれなかった。 「すぐ近く」と言ったが、さっきから十分以上は歩いている。 兄の家に荷物が届くはずの時間が迫ってきて、内心焦り始めていた。 遅れるかも知れないと兄にメールを送っておこうか…と思ったとき、男の子が「ここです」と一軒の家に駆け込んで行った。 この家も古い。モルタルの壁が煤けて屋根の瓦も重たげだ。 庭の木々もだいぶ大きい。 色づき始めた紫陽花が、生け垣代わりに植わっている。庭の奥の方で、てりてりとした若葉を茂らせているのは柿の木だろうか。たわわに実った梅の木もだいぶ古そうだ。 ところでアンジェロ、もう降りてもいいんだが…。 どういうわけだか、僕の腕の中で寛いでいる。 男の子の呼び声で、廊下の奥から誰か出てきた。 ほっそりとした足がショートパンツから伸びている。着古したTシャツ、刈り上げ寸前のショートヘア。 男の子とそっくりの大きな目が、警戒心を込めて僕を見つめた。 「お姉ちゃん、このおじさんがアンを捕まえてくれたんだよ」 彼女はアンジェロを見て、もう一度、僕を見た。 僅かに警戒は解けたようだが、にこりともしないまま頭を下げた。 「アン、こっちにおいで」 タヌキ猫は、「どっこいしょ」というように玄関の上がり框に飛び降りた。そのまま腹這いになって、毛繕いを始める。 「おじさん、道に迷ったんだって。○○っていうアパートに行きたいんだって。お姉ちゃん、知ってる?」 お姉ちゃんは首を傾げた。 大きなマンションでもない限り、アパートの名前なんて分からないだろう。 僕は手短かにアパートの壁の色や、周りに何があるか説明した。 「…それなら分かるかも」 男の子に「ほら、△△君の家のすぐ近くに…」と言うと、男の子は「ああ!」と頷いた。 「だったらおじさん、全然、逆方向に歩いてたよ?」 よく似た瞳が二組み、同じように憐れみを湛えて僕を見つめた。 …大人だって、時々、迷子になるんだよ。 男の子が早速、「案内するね」と駆け出そうとすると、お姉ちゃんが引き止めた。 「ちょっと待っててください」と呟くと、奥の台所らしき部屋に引っ込んだ。 ガラスが触れ合う音、氷の音が聞こえる。 程なくして、小さな盆にグラスを乗せて戻って来た。 「…どうぞ」と、ぎこちなく差し出される。 琥珀色の飲み物と氷が満たされたグラスが、火照った手のひらに気持ちがいい。 遠慮なく頂く。 甘酸っぱい飲み物が、さらさらと喉を流れ落ちた。汗がひく。 「それ、梅ジュースだよ。庭の梅で作ったシロップ。死んだおばあちゃんが、去年作っておいたとっておきだよ」 あっという間に飲み干すと、男の子が自慢そうに教えてくれた。 その時、家の中を風が通り抜けた。 薄荷の香りがする。 「気持ちいいなぁ!」 突然、年老いた男性の声が響いた。 お姉ちゃんが庭に面した部屋に入っていく。 「おじいちゃん、よく寝たね。喉渇いてない?少し体起こしてみようか」 話しかける口調は、とても優しい。 そうか、昼間は彼女が小さな「女主(あるじ)」なんだ。 「そうだ、おじさん、ちょっと待っててね」 靴を脱ぎ散らかして、男の子も台所に駆け込む。 再び玄関先に戻ってくると、白い濡れタオルを渡してくれた。 おしぼりらしい。 広げると薄荷の匂いが広がった。 ミントの葉が仕込んである。 アンジェロがクスンと鼻を鳴らして、のそのそと立ち去った。 「おばあちゃんが、お客さんが来るとこうしてたんだ」 「庭にいっぱい生えてるから、お茶にしたり、お風呂に入れたりもするの」 「僕、お茶は嫌い」 姉弟が交互に説明してくれる。 「もしかして、アンジェロのシャンプーにも使う?」 二人が頷いた。 たぶん、本人はあまりミントもシャンプーも好きじゃないんだろう。ミントの香りで察して逃げ出したに違いない。 もう一度、薄荷の風が抜けた。 古くても、風通しがいい家らしい。 「薄荷、いい匂いなのにね」 お姉ちゃんがクスクス笑う。 「おじいちゃんも『薄荷』って言うよ」と男の子も笑う。 …おじさんじゃないと訂正したかったのに、完全にタイミングを逸した。 兄の部屋で無事に荷物を受け取り、冷蔵庫の中身を確認する。 カルビが1パック。それも和牛。 よし。それなら、設定までやってやる。 テレビが映ってビールが冷えた頃、兄が帰ってきた。 二人で肉を焼き、ビールを開ける。 お腹も気持ちも満たされた頃、兄が僕の胸辺りを指さして 「ところで、毛だらけなんだが?」と言った。 アンジェロの毛だ…。 仕方がなく、道に迷って姉弟に助けてもらった顛末を話す。 「お前、もう一度、ちゃんとその家に辿り着けるか?」 兄がにやりと笑って、手早くテーブルを片付け始めた。 失礼な。 タヌキ猫用のブラシでも手土産に、近々、寄ってみようと思う。 六月を奇麗な風の吹くことよ 正岡子規 〜菖蒲華(あやめ はな さく)〜 学校の国語で教わった俳句や、授業で覚えさせられた百人一首の歌は、今でもふと口ずさんだりします。 じめじめした梅雨時、スイッと軽やかな風が流れると思い出すこの句は、子規が大喀血した直後に詠まれたものだとか。 暑い最中の涼風や、春先の日溜まりなどに出会うと「恩寵」という言葉が浮かびます。 ありがたやありがたや…と、おばあさんみたいに手を合わせたくなります。 生死の境を彷徨い、辛うじて此岸に戻ってきた子規が、深呼吸のようにして呟いた句なのかな、と想像します。 「奇麗な風」を書きたかっただけなのに、長くなってしまった。。 写真はハナショウブです。 私、アヤメ、カキツバタ、ハナショウブの区別が曖昧ですが、私が好きなのはどうやらアヤメのようです。 5月頃、草地などですっきりと潔い濃紺の花を咲かすのがアヤメ。 江戸前の粋な芸者さんのようだな、と思います。 東京の根津美術館は、庭のカキツバタが咲く頃に、尾形光琳の「燕子花図屏風」を公開します。 一度は行ってみたいと思っています。 海の旬はカンパチなどなど。 山の旬は茗荷、オクラなどなど。 次回は7月2日「半夏生」に更新します。
by bowww
| 2014-06-27 12:15
| 七十二候
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