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第九候 菜虫化蝶

 一軒目の居酒屋は、歓送迎会の時期だけあってかなり騒がしかった。
 飲みに行こうと誘うと、西村は素直についてきた。聞き出したいことがあったのだが、これだけ騒がしいとゆっくり話もできない。
 腹ごしらえが出来た頃に、智則は西村を「もう一軒、付き合えよ」とバーに誘った。
「先輩ほどは飲めませんよ」と笑いながら、今度もあっさり同意した。

 西村は智則の職場の後輩で入社三年目になる。
 部署の中で年齢が近いこともあり、智則が世話係として面倒をみてきた。
 とはいえ、西村が智則の手を煩わせることはほとんどなかった。時間に正確で仕事の飲み込みが早い。ほどよく社交的で誰とでもうまく付き合えた。小さなミスで叱られても拗ねたり投げ出したりせず、同じ過ちは二度と繰り返さなかった。
 地味だが着実に成績を上げてくる営業担当者に育っていた。
 その西村の様子が、この数ヶ月おかしい。
 上の空でケアレスミスが続く。
 社内の休憩スペースや公園のベンチで、時には職場のデスクでも、目を閉じたままじっと動かずにいる姿が度々目撃されて、同僚たちの間でも話題になっていた。
 鬱病ではないかと心配になった智則も、幾度となく声を掛けたり、ランチに誘ったりしてみたが、受け答えはいつも通り快活だし、食欲が落ちている様子ではなかった。
 そこで久しぶりに、飲みに誘ったのだった。

 バーも混んではいたが、運良くカウンターの隅の席をもらえた。
 腰を落ち着ける前にと智則がトイレに立ち、席に戻ると西村が目を閉じて座っていた。
「西村、眠いのか?」
 西村はすぐに目を開けて「いいえ、ぜんぜん」と笑った。
 程なく、智則の前にはウイスキーの入ったショットグラスが、西村の前にはオレンジのスライスが添えられたカクテルが置かれた。
 智則はグラスを口に運んで一息ついてから、最近の西村の様子について皆が心配していると切り出した。
「皆さんにご迷惑かけて、本当に申し訳ないです。特に先輩にはフォローしてもらっちゃって…」
「そんなことは構わないんだが…。俺にできることがあれば、力になるぞ?できないことはできないけどな」
 西村は小さく笑うと、しばらく自分のグラスを眺めていた。そして
「…蝶がいるんです」と呟いた。
「チョウ?虫の?どこに?」
「…目の中、なのかな」
 ふと気が付くと、視界のごくごく僅かな一点が黒く欠けていた。何かを見つめようと意識を凝らすと、黒い小さな粒が邪魔をする。
「飛蚊症か?」
「目医者にも真っ先にそう言われました。目玉の中の硝子体が濁って、黒いゴミみたいなものが見えるんだ、と。
 でも、何回検査をしても違うんです。
 気になり始めると気になって、それに少しずつ大きくなっている気がして、ちょっとまいったな、と思っていたら、羽化したんですよ」
「…羽化…?」
「夜、眠りに落ちる瞬間、いつもの黒い粒が弾けて、青…群青…いや瑠璃色っていうのかな、瑠璃色の蝶が羽ばたいたんです」
 西村はその光景を正確に描写しようとするためか、目を瞑っていた。
「視界いっぱいに瑠璃色が広がって、すぐに遠くへ、闇の中へと遠ざかっていくんです」
 そして、その「羽化」は周期的に繰り返されるのだという。
「だんだん慣れてはきたけれど、追わずにはいられないんですよね」
 西村の右手が宙を泳いだ。蝶の軌跡を辿るつもりなのか、指先が波を描くように動いた。
 智則はウイスキーを喉に流し込み、チェーサーの水をあおった。丸く削った氷がグラスの中で鳴った。
 その音で西村は我に返ったように目を開けて、智則の横顔を見た。そしてすぐに正面を向いた。
 智則は言葉を探していた。目医者以外の病院には行ったのか、カウンセリングを受けたらどうか、何か悩み事があるのではないか…。
「…俺も見てみたいな」
 智則は自分の言葉に呆気にとられた。
 西村も智則を見つめたまま、動きを止めた。
「…今、羽化するところです」
 西村は俯いて独り言のように呟き、次の瞬間にはいつもの笑顔を智則に向けた。
「じゃ、僕、終電そろそろなんでお先に失礼します。先輩も飲み過ぎないように気をつけてくださいよ」
 と言い残すと、さっさと席を立った。
 智則は引き止めるのも忘れ、曖昧な返事をして西村の背中を見送った。
 カウンターには、西村が飲み残したオレンジ色のカクテルがある。
 何気なく手を伸ばすと、初老のバーテンダーが控えめにそれを制した。
 怪訝に思った智則がバーテンダーの顔を見返すと、
「飲み残しの酒はおよしなさい。悪酔いしますよ」と静かに諭された。
 彼はグラスを白いリネンで拭って、智則に見せた。
 ラピスラズリを削ったような粉がついていた。雲母のかけらのようにきらきらと光る。子供のころ、蝶を捕まえると指にこんな粉がついたっけ。
「鱗粉ですね」
 バーテンダーはカクテルを片付けて、智則の前には氷水がたっぷり入ったグラスを置いた。
 智則の視界の隅を、瑠璃色の光が一瞬、横切った。



〜菜虫化蝶(なむし ちょうと なる)〜



作り話を書いていると、思いがけない方向に話が進んでいくことがあります。ほぉ、そういう結末ですか…と書いている本人が呆れてしまうような。
私、飛蚊症です。老化現象の一つだそうです。
とほほ。。。
そんなところから書き始めたのですが、こんな話になりました。

菜虫は青虫。蝶の幼虫がさなぎになって、蝶になる季節ということだそうです。
海の旬はアサリ、サヨリなど。3月は「貝のお正月」、一番美味しい季節だと聞いたことがあります。
山の旬はワラビやセリ。山菜の季節ということですね。

先日、一泊二日で東京に出掛け、4つの美術展を巡るという弾丸ツアーを決行しました。
・「ザ・ビューティフル 英国の唯美主義」(http://mimt.jp/beautiful/)
・「ラファエル前派展」(http://prb2014.jp/)
・「アンディ・ウォーホル展」(http://www.mori.art.museum/contents/andy_warhol/)
・「星を賣る店 クラフト・エヴィング商會のおかしな展覧会」(http://www.setabun.or.jp/exhibition/exhibition.html)
やはり、4つも回ればキャパオーバーではあります。。。
でも、貧乏性といいますか欲張りといいますか、とにかく「見たいものは無理してでも見る!」という気持ちで行ってきました。
お金はなかなか貯まらない(貯められない)けれど、せめて思い出や経験は蓄えておきたいなと思います。
おばあちゃんになった時、思い出すものが少しでも多ければ楽しいのではないかしら…と思いまして。

写真は六本木ヒルズ(初めて行きました)から見えた東京タワー。
イナカモノにとっては、きらびやかなものばかりです、花の東京。

次回は「雀始巣」、3月21日に更新予定です。
もう春分になりますね。いよいよ春本番!となっているでしょうか。


第九候 菜虫化蝶_b0314743_01582607.jpg

by bowww | 2014-03-16 02:01 | 七十二候


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