ねびまさりけり(春分)

 高校に入って一年、樹(たつき)が平井君也と話したのは二、三度しかない。
 それでも、ほかの同級生に比べれば多い方らしい。大半は挨拶を交わす程度だという。
「そんなわけで中川、プリント類を自宅に届けてやってくれ」
 三学期の終業式の後、樹は担任の先生に紙の束を渡された。
 学級委員として、ついでに平井の様子を見てきてほしいと注文もついた。
「俺、そんな親しいわけじゃないんですから」 
 平井は不登校でも引きこもりでもない。休みがちとはいえ、成績は申し分ない。
 樹が見ている限り、いじめられている様子もない。
「教師より、同級生の気軽な声掛けの方がいいんだよ。気持ちが萎えたまま長い休みに入ると、そのまま学校に出てこられなくなる生徒って結構いるんだ。
 中川だって同級生のことは気になるだろ?」
 平井の家は近くまで行けばすぐに分かると、担任は地図を書き示しながら言葉を継いだ。
「ほい、電車賃とお駄賃」
 小銭とコロッケパンを渡されて、樹は渋々と頷いた。

 毎日乗り降りする駅を通り越して、四つ目の駅で降りる。
 樹の家や高校がある街よりも、山が近く空が狭い。
 手書きの地図に従って駅の西口に出て少し歩く。
 郵便局の角を左に曲がれば、「黒い板塀」が見えるはずだ。
 分からなければ、この郵便局で訊ねてみようと思いながら、樹は角を曲がった。
 右手に、確かに墨色の板塀がある。それが延々と続いている。
(まさか、あの一角全部が平井の家?)
 樹は半信半疑で塀に沿って歩き、入り口を探す。
 もう一度角を曲がったところで、ようやく「平井」の表札を見つけた。
 もちろん門はぴちりと閉まって、中の様子は分からない。
 樹は怖々とインターフォンのボタンを押した。
「はい、どちら様でしょうか」
 女の人のきれいな声がした。
「あの、君也さんの同級生の中川といいます。届け物があって…」
 緊張で声が裏返る。
「ああ、君也のお友達!すぐに開けますね。そのまま玄関までいらしてくださいな」
 門扉がギギッと軋んで内側に開いた。

 門から玄関まで、どれぐらいあるのだろう。
 大きく枝を広げた松の下をくぐり、しっとりと濡れた飛び石を踏む。
 花の香りに誘われて目を上げて、樹は首を傾げた。
 玄関へと続く小道の左側には、京都の寺のような日本庭園が広がっている。
 ところが右手の奥には、今は枝だけの薔薇のアーチが見え、ヒヤシンスやクロッカスが花畑を作っている。
 どちらも丁寧に手入れがされているものの、和洋折衷というにはあまりにもバラバラだ。
 そして、どこかに沈丁花の大木もあるらしい。
 甘い香りは歩くにつれていよいよ濃くなり、噎せ返りそうになった樹は思わず目を閉じた。
 どん!
 肩に何か、誰かがぶつかった。
「ごめんなさい!」
 咄嗟に謝って目を開ける。
 女の人が立っていた。
 薄紫の着物に銀糸の刺繍。銀鼠の帯に茄子紺色の帯締め。帯留め代わりのアメジストのブローチ。
 黒い髪を艶やかに結い上げて、驚くほど赤い口紅がよく似合う。
 樹は言葉をなくして女の人を見つめた。
 平井のお母さんだろうか。
「中川さん?」
 向こうから、樹を呼ぶ声がした。
 女の人はにっこり笑って会釈すると、樹とすれ違った。
 濃い花の香りも通り過ぎる。

 玄関先で待っていたのが平井のお母さんだった。
 樹はプリント類だけ渡して帰ろうとしたが、「せめてお茶でも」と引き止められた。
 通された座敷には、豪華な雛壇が二組、飾られていた。
 君也と差し向かいに座った樹は落ち着かないまま、出されたお茶を飲み干した。
 普段から付き合いがないのだから、話などすぐに途絶えてしまう。
 君也は話が尽きても、穏やかにニコニコ笑っている。
 夕暮れにはまだ間があるはずなのに、日が陰ってきたせいか広い座敷は仄暗い。
 お母さんがやってきて、「お雛様も見てやってくださいね」と雪洞に灯を灯した。
 途端に人形たちに生気が宿ったような気がして、樹はますます居心地が悪くなる。
「…見事なお雛様だよね、平井はお姉さんか妹さんがいるんだっけ?」
「ううん。僕は一人っ子なんだ。これは母と祖母のもの」
 言われてみれば、それぞれ相応に古びている。
「お姉さん、いないの?」
 樹は先ほど庭ですれ違った女の人を思い浮かべ、重ねて訊ねた。
「うん。父は滅多に家にいないから、母と祖母と僕の三人だけ。
 普段から『男一人』で分が悪いんだけど、雛人形が出ている間は完全に孤立無援。囲まれて、なんだか息苦しいぐらいだよ」
 君也は笑顔のまま答えた。
 樹は、君也の後ろに控える男雛の面差しが、君也とよく似ていることに気がついた。

 玄関の戸が開く音がした。
「ただいま」
「あ、おばあちゃんが帰ってきた」
 微かな衣擦れの音と足音が、座敷に近づいて来る。
「おばあちゃん、こちら僕の同級生の中川樹君」
 樹は挨拶しようと頭を下げたが、喉がひりついて声が出ない。
 視界の隅に、真っ白い足袋と薄紫の着物の裾が見える。
 声が出ない。
「あら、さきほどは…」
 沈丁花の香りが、樹を包んだ。


  綿とりてねびまさりけり雛の顔  宝井其角
  春の闇幼きおそれふと復(かへ)る  中村草田男
  沈丁花その存在を闇に置く  稲畑汀子

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都心ではそろそろ桜が開花するかどうかというタイミングですから、お雛様の話題はちょっと時期外れかも知れませんね。
私の住む辺りは月遅れの雛祭りですので、ご勘弁ください。
我が家のお雛様、「お前さん、まだ居たのかい?」と呆れ顔です。
毎年毎年ご期待に添えず申し訳ない…と思いながら、お詫びにチューリップを飾りました。
 
穏やかな暖かな三連休になりましたね。
空は春霞、山々のシルエットが淡く溶けてしまいそうです。
ところが明日は雪の予報。
冬はまだまだ、グズグズ駄々をこねる気のようです。
 

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# by bowww | 2017-03-20 11:04 | 身辺雑記 | Comments(0)